金沢聖書バプテスト教会

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クリスチャンのあかし

Yさんのバプテスマのときの証

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2003年11月9日(日)礼拝後犀川でバプテスマ式が行われ、私たちの教会に一人の姉妹が加えられました。

 バプテスマとは、一般に「洗礼」という言葉でしられる教会の入会の儀式のようなものですが、もともとは「浸め」を意味する言葉で、本来は全身を水に浸める(全浸礼)で行われます。それは、私たちの主イエス・キリストが十字架につけられ、死んで墓に葬られ、三日目に蘇られたこと、そしてキリストを信じる私たちが同じように復活することを象徴しており、キリストへの信仰の証であります。

 このように、一人の姉妹が加えられたことは教会にとって大きな喜びとなり、また天においても喜びがわきおこっているものと信じます。感謝します。








あかし

 【主の力強い御手の働き】



 聖書を学び始める前、私は最も身近な人をいつも裁いていました。

 最初は相手が変ることを望んでいましたが、やがて自分が変らなくてはいけないことに気づいたものの、それも出来ずにいました。私は、自分の方が正しいと思いたかったし、自分が変りたくはなかったのです。聖書を学ぶ機会を与えられましたが、私は最初その中に、



 自分に都合のいい理屈を求めていたと思います。そのような私に、聖書の言葉は厳しいものでした。マタイ伝 参上の垂訓の学びを通して、私が認めたくなかった自分の愚かさ、醜さ、罪深さを示され、そして「神の義」の完全さを教えられました。



 この聖書の学びを通して、それまで「信仰というものを持つならば、それは私自身や私自身の生活をよくする為のもの」としか思えなかった私が、「神を崇めるために私がある。」ということを受け入れられた時、方向転換できたとき、信仰告白することが出来ました。しかし同時に、私のようなものがキリスト者と名乗っていいのか、不安でした。



 その後、私はキリスト者に相応しい歩みをしたいと願いながらも、相変わらず他人を妬み、裁き、自分を誇りたい自分に失望してしまいました。6月にK姉妹がバプテスマを受けた時、私には受ける資格がないと思い、牧師婦人にバプテスマについて考えて

いるかと尋ねられましたが、「自分の醜さと戦っています。」としか答えられませんでした。そんな私に牧師婦人は、それは聖霊が働かれているからだ、と言われ、それから「自分で清くなる事ができるのなら、信仰は必要ないでしょう。」と言われました。



 また その頃、「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。・・・・・・信仰の原理によってです。」(ロマ3:27)

という御言葉を読んで、驚きました。



 今まで、自身の傷や欠けを何とか取り繕うようにしてきました。何とか自分の誇りを保ちたかったのです。人の前でそうしてきたように、私は神の前にも受け入れられたくて、神さまが喜ぶような祈りをするようにしていたことに、その時気づきました。全てご存知の神の前で。



 自分の本当の愚かさに気づかされました。

 キリストの十字架の死による贖いによって受け入れられたこと、キリストの復活に希望をもつ者とされたこと、全て神の憐みと恵みと導きによるものであることを覚えます。そして本当に感謝します。



 それから「こんなに醜く、弱く、愚かで、人を愛することが出来ない私を何とかしてください。」と祈った後、不思議に平安を覚えました。



 聖書の学びの中で、理不尽だと感じること、なかなか納得のできないことがありました。神の主権より、私の側の都合が大切だったからです。しかし、主は本当に忍耐を持って導いてくださいました。私におきたこれらのことは、今でも不思議なことで

すが、同時にとても自然なことでした。 主の力強い御手の御働きを覚えます。



 私の信仰は幼く未熟なものですが、与えられた信仰に堅く立ち、私が本当に遜って、神と人に喜んで仕える者とされますように。 主にある兄弟姉妹、人のために祈る者とされますように。 愛する主イエス様の御名によってお祈りいたします。



金沢聖書バプテスト教会員  Y


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