御言葉メール 57
2005年2月16日
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2章20節)
受験シーズンは、本人も親も多かれ少なかれストレスがかかります。その試験がまるで、自分の人生を決定する様な重みを持ったものとして、受け止めざるを得ないからでしょう。このストレスが十代の若者にとって、負いきれない重荷となる時、ある時は反抗的に、また快楽に、そして引きこもりや犯罪にはしるのもうなずけます。
これらの行動の底辺には、何のために勉強するのか、という問いがあり、これは思考や言葉として意識できなくても自分の生きる目的、自分とは一体何なのか、という問いとして突きつけられているからではないでしょうか。
2千年前、伝道者パウロは自分の信仰を告白する事によって、自分は何者であり何のために生きるのかを明快に証ししました。自分が生きるのは自分を愛してくださったキリストのためであり、自分はキリストにつく者だと。
私達クリスチャンが大胆にキリストを告白する事は、アイデンテテイの在り処を知らせ、世の悩みの答えを提供する事になる事を忘れてはいけません。
御言葉メール 57
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