金沢聖書バプテスト教会

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御言葉メール 85

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御言葉メール 85
2005年5月25
「遣わされなくては、どうして宣べ伝える
ことができるでしょう。」(ローマ10章15節前半)
私には、いつも恐れと戸惑いがあります。それは、説教についてです。いつも準備不足を感じているからです。
神様から遣わされているのに、いつも説教の準備が後回しになってしまいます。そして、説教の準備が、不十分であることの言い訳をしています。礼拝の土壇場になりますと決まって、祈る祈りがあります。
それは、「主よ、今回はお許し下さい。これからはちゃんと準備しますから。ですから、私の説教で今日、神様の御旨をこの会衆から隠さないで下さい。その責任は私にあるのですから。今日は、この時はイエス様の贖いに免じて、憐れんで下さい。」と祈っています。
何故、今回このようなことを言うのかというならば、説教とは、主によって遣わされる、という事から始まっていることを改めて教えられたからです。何度もの同じ祈り、何の効果もないように思える結果があるからです。
しかし、説教とは神に遣わされているので、この恐れがなくなることはない、これで十分という思いは決してないことを「説教とは何か」という、ロイドジョーンズの講演に同感したからです。
そして彼は、説教は説教者と会衆とが、相対峙しているのではなく、双方(語り手と聞き手)が一体となった時、説教がよき説教となるというのです。そしてこの時、礼拝が成立するのですね。決して互いが、敵対しているのでも孤独なのでもないと知らされました。

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