金沢聖書バプテスト教会

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神の本性と信仰生活 神の霊性

神は霊である

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 今回は、神のご性質の中で「神は霊である」ということについて学びたいと思います。これは、神の本性です。神の本性の分類の仕方は、様々にありますが、多くの神学者は第一にこの「神は霊である」ということを挙げております。それは、それだけ重要なことだからでありましょう。また、生まれながらの人間には決して理解できない部分だからであるかも知れません。なぜなら目に見ることのできないものであり、人間の知恵では証明できない部分であるからです。しかし、それが神の本質的なご性質であり、実質でもあります。

まず、霊とは何かという前に、聖書は人間について、二つの面に言及しています。それは、見える側面である肉体と、見えない側面である精神、心、魂、霊です。一般でも、肉体と精神という二つの側面が人間にあることは、よく考えられていることです。ここは、考え、意志し、判断し、感情を持ち、決断する機能を持っています。また、道徳的な能力も持っています。そして、とくに神と交わることの出来る部分として、聖書は霊という言葉を使っています。これは、魂や精神とは別の部分と言うことではなくて、機能的な側面ということが出来ます。また、神のかたちに造られ、神の息を吹き込まれた、人間独特の性質でもあります。これは、他の動物とは明確に異なる部分です。霊において神と交わることができるというのは、神のかたちに似せられているからであり、共通した部分を持っているからです。しかし、アダムが罪を犯して神から離れて以来、人は全人的に堕落し、その結果、知性、悟性、理性、判断力、道徳性のすべてが腐敗し、ゆがんでしまいました。そのため人間は、全く神の霊を理解せず、交わることも出来ない者となった、というのが聖書の教えるところです。

聖書の教える救いは、最終的にはこの神のかたちを回復する約束でもあります。ですから、神が霊であることを知ることは、救いの大切な側面を知ることであり、人間の本来の姿を知ることにも繋がります。

「神が霊であること」について聖書ではっきり言及している箇所があります。それは、ヨハネの福音書4:24です。「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません」

これは、イエス様がサマリヤの女に語られた件です。この女はサマリヤ人でした。サマリヤ人は、イスラエル人と異邦人の混血の民でした。それは、アッシリヤの政策によって、民族のアイデンティティを損なわせるためでした。それによって、信仰も他民族の影響を受けていきました。しかし、モーセ五書は持っており、そこに書かれている救い主を待望している人達もいました。25節で彼女は「私はキリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています」と告白しています。しかし、実際において彼女のいのちにとって一番大切だったものは物質的なものでした。井戸であり、男性でした。その彼女にイエス様はお会いになり、水を求められます。そして「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」(10節)と言われました。しかし、まことの神を知らない彼女は、物質的なものを最重視していたことが彼女自身の言葉の中に出て来ます。「あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」(12節)と言っています。彼女にとって一番偉い方は、ヤコブでした。その理由は、井戸を与えてくれたからだと言っています。そして、イエス様に、「あなたにそれ以上のことができるのですか。できないでしょう。」と主張しているのです。実際に、パレスチナにおいて、井戸は生命線でした。井戸がなくては、生きていくこと自体がままなりません。しかし、今この井戸は彼女の領域内にあり、汲むものを持っています。しかし、イエス様は異国の地にあって、汲むものを持っていません。その意味で彼女は、優越感を持っていました。(サマリヤ人は、民数記24:7から「手おけからは水があふれ」ていることがメシヤのしるしであると信じていたらしい)それは、彼女の持っていた尺度で、イエス様を計っていたからです。しかし、イエス様がお与えになると言われた「生ける水」は、霊的なものでした。これはヨハネ7:37~39を見ますと、イエスを信じる者に与えられる聖霊を指していることが分かります。このご聖霊も、神であられ、霊なるお方です。神は、霊なるお方であり、であるからこそ霊に属するものをお与えになることのできるお方であります。そして、生まれながらの人は、その霊を知ることが出来ず、また霊に属するものを知らず、自ら受け入れることもできません。

しかし、イエス様は、彼女の一番醜い部分であり、悩んでいる部分であり、人に話すことの出来ない部分に触れられ、ご自分の全知性と、それでもなおかかわってくださる愛とを示されます。そして、ご自分こそがメシヤであると示されました。彼女は、それを知ったとき、水瓶をおいたまま、町へ行き、イエス様のことを多くの人に知らせました。非常に大きな変化が起こりました。男性との関係でも満たされず、水に大きな価値観を持っていた彼女が、水瓶をおいたまま出て行けるほどの喜びに満たされました。救い主を知ったからです。そして、わずかながらも霊なるお方を礼拝する喜びを知ったに違いありません。たとえわずかであっても、それは今まで彼女が求めて来たすべてにまさるものでした。それを人に知らせたいと、行動したほどです。今までは罪深い生活のゆえに、隠れてまで日差しのきつい昼間に水を汲みに来ていた彼女が、昼の明るい日差しの中、堂々と、喜びにあふれて大勢の人の中に出ていったのでした。これが、霊である神を知り、その賜物をわずかながらも知った彼女に起きた変化でした。そして、今まではこの世の生ける水、つまり井戸を供給する人こそが、彼女にとって偉大な人物であったのが、この霊の賜物をお与えになる、霊なる神こそが最も偉大な方であることを知ったのでした。このことは、真実の礼拝へと導きました。自分で、これは偉大な方であると自分に思い込ませるような偽善の必要がありません。本当に、自分でこの方こそ偉大な方であると知り、心から喜んであがめたのです。それは、サマリヤ人がゲリジム山で礼拝するとか、イスラエル人がエルサレムで礼拝するということよりも、真実な心からであり、また真実なお方へ向いた礼拝でした。

ですから、神が霊なるお方である(この世で言われる霊とはまったく別次元の意味で)ということを知ることは、そのお方の偉大さを知り、また、その賜物を知ることになります。それは、この世の与えるどんなものとも違います。ですから、神が霊であることを知ることは、その賜物の豊かさ、また真実の価値を知ることに繋がります。そして、その価値を知った人は、世を愛する欲に打ち勝つことができることを教えられます。

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