御言葉メール848
2016年9月11日(記:辻嵐桂子)
「憎しみは争いをひき起こし、愛はすべてのそむきの罪をおおう。」(箴言10章12節)
先日の聖書研究会では、第Ⅰサムエル記からハンナの信仰について学んだ。その時、1章6節で「憎む」と訳されている語が、英訳では「ライバル視する」とかそういう意味合いの言葉であると聞いた。
教えてくれた宣教師はこの日本語訳に違和感を覚えているようであったが、私は、自分より夫に愛されているもう一人の妻に対して抱く女の感情を、よく表していると思った。
それも踏まえて上記の御言葉を読むと、「憎しみ」とは特別な感情でなく、妬みであったり党派心であったり、誰もが抱く感情である。たとえ些細であっても、それは争いをひき起こし、時に最悪の結果をもたらすのである。
「愛」は全く逆である。Ⅰぺテロ4章8節で「互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」とある。また、Ⅰコリント13章では愛がいかに優れているかが語られ、14章1節で「愛を追い求めなさい。」と言われる。
愛は寛容で、人を妬まず、自慢せず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、すべてを耐え忍び、云々(4ー7節)。
しかし、私たちの内にこのような愛はない。私たちは、愛を「熱心に」「追い求め」るよう勧められている。
私たちのために完全な愛を示して下さったお方がいる。私たちの罪のため十字架につけられ死んで下さったイエス・キリストである。
彼の死は私たちの贖いのためであり、私たちが神の御前に立つ時、私たちの罪を完全におおって下さるのである。