御言葉メール881
2017年4月29日(記:斉藤文子)
「わたしは、彼らがわたしに犯したすべての咎から彼らをきよめ、彼らがわたしに犯し、わたしにそむいたすべての咎を赦す。」エレミヤ33の8-神に造られた被造物である私たち人間。その神に背くことで生きる目標を失い、自分の欲望を神としてしか生きられなくなった人間。
イスラエルが神ならぬ偶像から離れなかったために、バビロン捕囚という裁きが下った様に、私たちも天の父である神を無視して生きる者である限り、神の裁きを受けなければならない存在です。しかし、哀れみ深い神があの捕囚からイスラエルを解放された様に、私たちが受けなければならない裁きを、私たちの代わりに他の方に負わせられた。
私たち人間の身代わりになられた、神であるイエスキリストです。十字架でキリストが処刑された時、私たちの罪も処罰されてしまいました。バビロン捕囚の後に神の祝福が待っていたように、神を無視する人間の罪がキリストと共に罰せられた時、私たちは罪があるにもかかわらず、罪赦された者となりました。罪を持ちながらも、キリストを通して私達をみてくださる神によって、全く義しく聖い者とみなしてくださった。人間が本来受けるべき裁きは、余すところ無くキリストが受けてくださった。これらの全てを計画し実行されたお方が神と呼ばれる方です。人が思いつきもしない、考えつくことさえできない自己犠牲の究極が、神の愛です。