全能なる神

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 神の全能性とは、神はどんなことでもおできになる方ということであり、神にできないことは一つもないということです。
 神の全能性については、聖書は文字通り全能(シャッダイ)という言葉を使っており、神ご自身がアブラハム、イサク、ヤコブに、ご自分を「全能の神」として啓示されました(創17:1、35:11、43:14、48:3、出エジ6:3)。そして、新約聖書でもマリヤに現れた天使ガブリエルが「神にとって不可能なことは一つもありません(ルカ1:37)」と証言し、イエス・キリストも「人にはできないことが、神にはできるのです」(ルカ18:27、マタ19:26)と言って、神の御力の卓越性について教えられました。

1、神の言葉によって表される神の全能性

 神の全能性は、神のお言葉によって現され、それは創造と保持において示されています。全世界に存在するすべてのものは、神によって創造されました(創1章)。そして、その創造は、神の言葉によりました(創1:3等)。また、同じ神の言葉によって万物は保たれています(ヘブル1:3)。つまり、存在するすべてのものは、神の言葉によって存在させられ、維持されているのであって、存在するもので、神の意のままにならないものは何一つないと、聖書は断言しております。神の言葉の全能性は、創造、保持だけでなく介入にも現れます。イザヤ55:11には「わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰ってはこない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる」と書かれており、これは、神の言葉が未来においても確実に成就することを断言しております。神の全能性と誠実さのゆえに、神が語られたお言葉は、必ず成就するのです。それは、過去においてそうであったことを聖書は立証し、また、未来においてもそうであることを教えます。
 これらのことから、神の全能性は、私たちが御言葉を信頼する根拠の一つとなります。聖書は神の言葉です。そして、その真の著者たる神は、全能であられます。ですから、私たちは聖書の言葉(とくに神のご命令、約束、預言)を、確実な結果を伴うものとして信じ、信頼することができます。

2、神の全能性は神の契約を保証する

 先にも述べましたように、神はアブラハム、イサク、ヤコブにまずご自分を「全能の神」として現されました。そして、神が「わたしは全能の神である」と言われた時は、契約を結ばれるとき、あるいは契約を更新される時でありました。この契約は、アブラハムとアブラハムの子孫を祝福すること、アブラハムが祝福する者を神が祝福されること、そして、アブラハムの子孫を星の数のように増やし、国民とし、その国民の神となるという契約であり、神が人に結ばれた一方的な契約でした。この契約に先立って、ご自分を「全能の神」であると主張されたのは、この契約を神が必ず遂行されることの保証として語られたのです。神は全能であられるからこそ、契約を確実に成就する力があります。神の契約、約束を信じる信仰というのは、自分の能力とはまったく無関係であり、神の全能性だけが、その保証です。アブラハムは、夫婦が子を産める年齢を遙かに超えたのを認めて、それでもなお、「神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じ」たとロマ書4:21は、証言します。このことは、私たちと神の関係においても、まったく同じ事が言えます。このことは、神がご計画を成し遂げる方であるという側面も持っています。神はご自分が立てておられる計画を良く知っておられ(エレ29:11)、それをことごとく成し遂げる力を持っておられます(ヨブ42:2)。
 これらのことの故に、私たちは神の救いの約束に信頼し、聖化と、栄化の約束について、平安をもって信頼することができるのです。キリストの贖いは、神が私たちの味方となられたことを保証し、神は私たちが聖められ、完成されるために、すべてのことを働かせて益とされる、最善のご計画をして下さっていることを知り、また、そのご計画を成し遂げられる力を持っておられることを知るのです。

3、神の全能性は罪人が救われることを可能にする

 聖書は、罪人が、その性質を変えるのは不可能であると教えます(エレ17:9等)。エレミヤ13:23では、罪人が善を行うのは、ひょうの斑点が変わる、あるいは肌の黒いクシュ人の肌の色が変わるほどのことだと言います。これは、悪になれたイスラエル人対して言われている言葉ですが、ここで聖書が言う悪とは、神に対する姦淫、偶像崇拝のことを指しています。聖書の民イスラエルがそうであるならば、聖書を持っていない異教の国民は、なおさら同じ事が言えます。まことの神に信頼しない罪人が、まことの神に心から信頼し、まことの礼拝をお捧げすることは、まずもって不可能と言うことです。新約聖書では、イエス・キリストが、裕福な人(神よりも富に信頼している人)が神の国に入るのは、らくだが針の穴を通るよりも難しいと語ります(マタ19:23,24、ルカ18:24,25)。それを聞いた弟子たちは、それでは誰が救われることができるのかと驚きます。しかし、イエス様は、「人にはできないことが、神には出来るのです」と続けます。イエス・キリストによって成し遂げられた救いとは、それほどのことなのです。人には、決して出来ない、あり得ないことを、神が全能の力をもって成し遂げて下さったのです。クリスチャン一人一人の救いは、神の全能の力をもってして初めてなされた、驚くべき奇跡の業なのです。神がイエス・キリストを死者の中からよみがえらせた、その全能の力によって、クリスチャンは新しく生ましめられたのです。神の全能性は、罪人の希望です。らくだが針の穴を通るより難しいことを可能になさる神であるからこそ、イエス・キリストを救い主として信じる者を、本来何をもってしても救われることの出来ない罪人であるにもかかわらず、救うことがおできになるのです。

4、神の全能性はご自分の性質のうちにおいて完全である

 神の全能性は、罪人である人間から見れば、否定的側面を持っています。それは、ご自分のご性質に反することはできないということです。例えば悪を傍観していること(ハバクク1:13)、ご自分を否むこと(Ⅱテモテ2:13)、偽ること(ヘブル6:18)、罪を犯すこと(ヤコブ1:13)はできません。とくに、罪人から見て特徴的な面は、神はご自分が聖であられ、その聖さに反することは、まったくなし得ることがないということです。あえて人間的に言うならば、神は罪を犯すことがまったくできないのです。これは、他の本性についても言うことが出来ます。例えば、神の遍在性を学んだとき、それは地獄にいることを意味しませんでした。まったく罪、汚れのない神は、地獄の中にいることはあり得ませんが、地獄は完全に神の支配下にあり、そこでの全ての出来事は、神の意志に反して起きることはなく、神はそのすべてをご存知であるということでした。これは、全知性についても言えます。神は、何が、どのように罪であるかご存知ですが、神は経験的な意味においては(聖書の「知る」は、しばしばこの意味において用いられる)、あるいは意志の範疇においては、罪をまったく知らないお方です。
 できないという表現は否定的ですが、これは罪に対して何の束縛も受けず、完全に自由であることを意味します。神は、ご自分の聖なる意志を、自由に成し得るのです。この点で、罪人たる人間は罪に対してまったくの奴隷であります。何の努力も必要なしに罪を犯すことができるのです。神の全能性を正しく理解することは、キリスト者の自由とその幸いを理解することにも繋がります。罪を犯すことができない、つまり罪に対して全く自由な方であられるからこそ、罪の奴隷であった人間に、御霊なる神によって(ガラ5:13~17)、真理なるイエス・キリストによって(ヨハ8:31~36)真の自由をお与えになることができるのです。罪を犯すことのできない全能性を持たれる神だからこそ、私たち罪人にとって本当に必要な方なのです。できないということは、人間から見れば、何が罪であるかという理解がゆがんでいるために、弱く、愚かで、あるいは奴隷とも見えることもあるでしょうが、これこそ、神の強さであり、知恵であり、自由であり、勝利なのです。(ロマ6:16~22)

5、神の全能性と祈り

 神の全能性に対する理解は、クリスチャンの祈りに大きな影響を与えます。あるいは、祈りとは何かということの、重大な側面であるとも言えます。イエス・キリストの教えられた祈りは、祈りが答えられるか、答えられないかわからないような、曖昧なものではありませんでした。イエス様の教えはこうです。「あなたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます」(ヨハ15:7)、「あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです」(ヨハ16:24)。ここに祈りの内容の難しさは挙げられておりません。条件は、祈る者がキリストにとどまり、キリストの言葉が祈る者の中にとどまっていること。そして、キリストの名によって祈ることです。そのようにして祈る祈りは、「かなえられます」「受けるのです」と断定されています。また、この御言葉を記したヨハネは、ヨハネの手紙第一において「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです」(Ⅰヨハ5:14,15)とも記し、キリスト者の祈りは、かなえられたと確信して祈るべきであることを、明言しています。そのように断言できる根拠は、神が全能なる方であることを、聖書によって信じているからです。また聖書以外によっては、あるいは聖書が教える神以外は、決してこのような断言はできません。
 祈りは全能なる神によって答えられるのですから、山をも動かすことのできるものです。そこで必要な理解は、祈る者の資格と、祈りの内容の質です。前者は、贖いによってのみ与えられる恵みです。キリストの贖いによって義と認められた者が、キリストの執り成しによってのみ受け入れられるものです。後者は、神はご自分の性質にかなったことのみ成し得るという理解です。消極的な面では、「自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で」願う祈りは受け入れられません(ヤコブ4:3)。積極的な面では、キリストの言葉がその人の内にとどまるとき、神のご性質にかなった願いが起こされます。実際には、神のご性質にかなわない祈りと、かなう祈りが渾然としているのが現実です。それでもなお、神の真実さと、良いものを惜しみなくお与えになる神の慈しみに信頼して祈るのです。祈りとは、どのような神に、どのように信頼するかという性質を持っており、それは人と神との交わりにおいて、なくてはならないものなのです。

その他の神の全能性に関する聖句

1、総論的 ヨブ42:2、創世記18:14

2、各論的

 ①自然界を支配しておられる

創世記1:1~3、詩篇107:25~29、ナホム1:5,6

 ②人間の意志と行動を支配しておられる

ダニエル4章、使徒9章、出エジ4:11、ヤコブ4:12~15

 ③御使いを服従させられる

ダニエル4:35、ヘブル1:14

 ④サタンの行動をも神の支配下で制限しておられる

ヨブ1:12、2:6、ルカ22:31,32、黙示録20:2

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