自存される神

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1、聖書の教える神の自存性

 聖書は、神が自存される方であることを教えています。神の自存性とは、神が何の原因も必要とせずに、存在しておられることです。聖書の神は、出エジプト記3:14において、ご自分の名を次のように啓示されました。「わたしは、『わたしはある。』という者である」。これは、「わたしは、在りて在る」とも訳され、自ら存在されることを言明されたと解釈される言葉です。そして、この「ある」という言葉は、原語の文法では、過去も、現在も、未来も表す言葉遣いで、常に存在する、ないしは存在しない時はないことを示します。このことは、永遠性とも関連しますが、神が自ら、常に存在されるという側面が神の自存性です。前述の「『わたしは、ある。』という者である」という神の言明は、モーセが神に、エジプトの奴隷となっていたイスラエル人が「その名は何ですか」と聞かれたら、どのように答えたらよいかと神に尋ねた質問に対する答えでした。モーセがいたころの言葉遣いでは、単に名前を聞くときは「その名は誰ですか」と問うのが普通で、「何ですか」と聞くときに、それは本性を問う意味になるとのことです(新聖書注解)。つまり、神とはどのようなお方かという本質的な面において、神は永遠から永遠まで常にご自分で存在される方、存在されないときは一瞬たりともないお方であるということです。それは、神には存在するようになったときもなく、存在がなくなることもないということでもあります。

2、神は何の原因も必要なく存在される

 この世のすべてのものは、神のことばによって創造され、神のことばによって保持されています(ヘブル1:3)。つまり、万物はあらしめられているのであって、神なしにその存在はあり得ません。神のみが、何の原因もなしに存在しておられます。
 それは、神はご自分の存在について何をも必要とされないということです。人間は、存在という大きな意味においてでなくても、この地上で生きていくことにおいて常に自分以外のものを必要とします。身体のために食料を必要とします。また、身体の維持のために光、暖かさを必要とし、また人格的にはコミュニケーション、教育を、そして社会的には様々な助けを必要とします。それによって地上における生命(精神・心を含め)が保たれています。しかし、神にはそれらのものは、一切必要なく、ご存在しておられます。

①神には人に仕えられる必要がない

 これは、使徒の働きでパウロがはっきり次のように述べています。「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何か不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちの息と万物とをお与えになった方だからです」(使徒17:24~25)。神には、何の不自由も、不足もなく、それをご自分以外のもので満たされる必要をまったく持っておられません。

②神には人に栄光を与えられる必要はない

イエス・キリストは、ヨハネ17:5で「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょに持っていましたあの栄光で輝かせてください」と祈られました。またヨハネ17:24では、父なる神に「あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです」と祈られます。つまり、三位一体の神は、互いから受ける栄光こそが、最も豊かで完全な栄光であって、人から栄光を受ける必要のない方です。また、この栄光は世界が存在する前からあったと言われています。人の存在は神によって成り立っているので、生かされているという栄光は当然神に帰すべきであって、神に捧げられるような栄光は何も持っていません。つまりは、人によって飾られたり、誇張されたりする必要のないお方であります。

③神は人による愛と交わりを必要としない

 前掲の17:24で「あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられた」とイエス・キリスト言われました。罪のない三位の神の間には、完全な愛があり、その愛に基づく完全で豊かな交わりがあります。しかも、それは世の始まる前から、あらゆるものが存在する前からありました。これは、人による愛や交わりを、神が必要とされるということはないということを示しています。むしろ、キリスト者は、この豊かで完全な交わりの中に加えられるのだとⅠヨハネ1:3は教えます。

④神は必然的に存在される

 神は、ご自身の内にさえ原因を持っていないとも言うことが出来ます。神には存在しないということがあり得ないからです。神の存在は、神の本質的な事柄であり、証明も、論証も必要としない事柄です。

3、神の自存性と私たちの信仰

①神の存在は証明が不要である

  聖書は、神のご存在について、何の擁護もしておりません。自存されるお方こそ、聖書の教える神だからです。私たちは、どのような神を信じるかということについて学ぶ必要があり、神からの啓示(聖書、イエス・キリスト)が必要でありますが、神の存在については証明を必要としませんし、無意味です。ただ信じることが求められています。

②神に用いられることはまったくの恵みである

 神は、人間によって何の奉仕(霊においても、行動においても)も、捧げ物も必要としておられません。人間の力によって、神が益を受けるということはあり得ません。神の自存性を理解する時に、人間に誇る余地はありません。むしろ、「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った」(イザ43:7)と書かれているように、神にとって他の何者をも必要としないのに、神のご栄光を現す器として人間を造ってくださったことに、人間の存在意義と、喜びがあります。

③神は人間の存在の原因である(ヘブル2:10)

 自存されるお方によって存在させられているということが、私たちの存在の力強い支えです。原因であるお方との関係が健全であるならば、私たちの存在をゆるがすことのできるものは、何もありません。また、私たちの存在意義も失うことがありません。この原因であるお方から離れたということは、自分の存在を支えるものから離れたということでもあります。いのちから離れたということです。このことを考える時、神から離れた者が霊的に死んでおり、イエス・キリストこそ人にいのちを与えるまことのパンであるという真理がよく理解できます。

④神の導きの豊かさを知る

 神が自存される方、とくに独立性を考える時、神が私たちに必要なものをすべて持っておられ、また私たちに必要なものをすべてお与えになることの出来る方であることを知ります。これらのことを考える時、神との和解こそが、すべてを解決に導く鍵であることが分かります。

⑤人間の真の自立において

 人間は、あらしめられている存在である以上、ある点で自立、独立して存在することはありません。あらゆる面で、依存して生きている存在です。しかし、すべてのものをご自分で持っておられる神に依り頼むときに、他への依存から解放されます。また、自分の強さや、弱さなどは、自分の存在の根拠にはならないことが解ります。

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