唯一なる神

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1、神の唯一性

 神の唯一性とは、神が他の存在と比べられない、遙かに超越した存在であるという側面と、神のようなお方、その力においても、ご性質においても、お働きにおいても、他の存在にはまったくない、なぞらえることのできない、独特のご存在であるという二つの面があります。聖書の神は、一貫して唯一の神であります。それは、聖書の神ご自身の主張であり、また、聖書の教える神は、唯一でしかあり得ないからです。聖書の神は、比類なきお方です。人間は、生まれながらにして神を思う宗教心が与えられています。しかし、それが罪のゆえに歪んでいるために、決して真の神にたどり着くことができず、様々な神々、様々な宗教を造り出してしまいました。しかし、まことの神がどのようなお方なのかを真に求めていくならば、神はおひとりしかおられないはずです。イザヤ44~46章は、神ご自身が「わたしのほかに神はいない」と主張されていく箇所です。このイザヤ書を中心にしながら、神がおひとりであるということが、私たちとどう関わっているのか学びます。

2、比類なき神はおひとりしかおられない

 イザヤ44~46章は、神ご自身が大胆に、ほかにわたしのような神がいるのかどうかを、読者に問うていきます。多くの人達が神と思うもの、様々な宗教の言う神々が、本当に神としての性質を持っているのか。そして、本当に神であるならば、どのような性質を持つものなのかを教えていきます。

①永遠なる神はほかにいない

 44:6~8で神は、「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。わたしが永遠の民を起こしたときから、だれが、わたしのように宣言して、これを告げることができたか。これをわたしの前で並べたててみよ。彼らに未来の事、来たるべき事を告げさせてみよ。恐れるな、おののくな。わたしが、もう古くからあなたに聞かせ、告げてきたではないか。あなたがたはわたしの証人。わたしのほかに神があろうか。ほかに岩はない。わたしは知らない。」と語られます。ここには、神の永遠性が述べられています。「初めであり」「終わりである」方。始まりもなく、終わりもなく、常に永遠に存在される、それこそが神だと語ります。そして、その他の神と言われるものが、このような性質を持っているのかどうかと問い掛けます。それだけでなく、ご自分が永遠なる神である証拠も示します。このイザヤ書は、ユダ王国が、バビロンに捕囚される前に預言されたお言葉です。捕囚される以前に、民の罪のために、バビロンに捕囚されることと、70年後に回復されることを告げていきます。45章では、ペルシャの王クロスによって帰還の命令が出され、神殿の再建までされることを告げていきます。まだ、自分たちにそのような裁きが下ることさえ信じていない民に語っていきます。そのことによって、ご自分が過去も、未来もすべて知り、支配しておられることを読者に示していきます。

②万物を創造された神はほかにはい

44:24~28では、次のように語られます。
あなたを贖い、あなたを母の胎内にいる時から形造った方、主はこう仰せられる。「わたしは万物を造った主だ。わたしはひとりで天を張り延ばし、ただ、わたしだけで、地を押し広げた。わたしは自慢する者らのしるしを破り、占い師を狂わせ、知恵ある者を退けて、その知識を愚かにする。わたしは、わたしのしもべのことばを成就させ、わたしの使者たちの計画を成し遂げさせる。エルサレムに向かっては、『人が住むようになる。』と言い、ユダの町々に向かっては、『町々は再建され、その廃墟はわたしが復興させる。』と言う。
ここには、まことの神は万物の創造者であることを告げます。それは、私たち自身が自意識を持つ前に、また、人目に触れないときから創造した方であると教えられます。胎児というのは、人がまだ善悪を学ぶ前です。どんな性格も、才能も、行いも現れる前です。その段階においてすでにお造りになった神は、生まれてからどのような権力、能力、性格を持とうとも、ご自分の御手の下にあることを教えられます。その証拠として、バビロン、ペルシャという世界帝国の皇帝でさえ、例外でないことを示していきます。ペルシャはもちろんバビロンでさえ、世界を手中に収める前に、それらの国が興ること、そして、その支配者たちがどのように振る舞うかを告げていきます。それは、まことの神を知らず、信じない、この世の最高権力者であっても、その権力は、神が与えられたものであり、彼らが生まれる前から定められていたことを教えるのです。このような神が他にあるかと問いかけます。
神は、創造のもう一側面を教えられます。それは、光や、平和を造られただけでなく、やみや、わざわいをも創造されたと言うことです(45:7)。イザヤ書で告げられる預言は、人が望むような平和や希望だけでなく、むしろわざわい、さばきなど、悲惨な内容が大胆に告げられていきます。人間の考える神々は、何を造り出すかについて、人間の思想に押し込められています。光だけを造る神があれば、やみだけを造る神、さまざまな神々を考え出していきます。しかし、聖書の神は、ありとあらゆるもの創造されたことを告げます。それは、人間の思想を遙かに超えたご存在です。幸いを造る神が、なぜわざわいをも造られるのか、人間には想像できません。神は、わざわいにも目的を持っておられます。私たちが、それを知らなくてもです。しかし、神は正義の神であって、罪を造る方、罪を犯させる方ではありません。罪人もサタンも神のお許しがなければ、何もできません。そのような神は、他におられないのです。

3、人を救うことの出来るお方はほかにはいない

神がイザヤを通してこれらのことを告げていく最終的な目的は、45:21以降に語られていきます。それは、この神だけが「救い主」(45:21)であり、人類をその罪から救うことのできる唯一のお方であるということです。
今まで書かれてきたような、永遠なる神、すべての人を創造された神であるならば、それは特定の国や地域、民族に限られないお方です。この神は、イスラエルもイスラエル以外の国民も関係なく、あるいは信じる者にも信じない者にも、知っている者にも、知らない者にも、ご自分こそがまことの神であると主張できる、神であられるのです。この神は、ご自分を知らない、信じていない、未来の存在であるクロス王を名指しで呼び、肩書きを与え、力を帯びさせて、世界帝国の支配者の座につかせられました。しかも、それはイスラエルのためでした。神は、45:22で、イスラエルのユダ王国に語りかけながら、イスラエルとバビロン、ペルシャを通してなされる御業を通して、すべての者に、ご自分こそ神であることを示し「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ」と招かれるのです。
そして、神が唯一であられるのは、救いの方法についても一つであることを示します。ロマ3:28~30には次のようにあります。
人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。
ここには、今まで述べてきたように、神が唯一なら、すべての人にとっても神であることを教えます。イザヤを通して神が語られたのは、どの国の宗教が優れているとか、良いとか、悪いとかではありませんでした。そのメッセージの中心は、まことの神は、どのような方であるか。神である方を、本来あるべき姿よりも、ずっと、ずっと小さく、あるいはゆがめていはしないかということでした。このメッセージは、すべての国の人々の当てはまることです。神が求めておられることは、神を神として知り、崇め、信じることなのです。そのように神を神として、つまり永遠で、全知・全能、創造主にして万物の支配者である神として覚えていくならば、神は決して複数ではあり得ません。必然的に、神はおひとりであることを知るのです。神をまことの神として求めていくことこそ、人間にとって真に必要なことなのです。
そして、救いの道についても、あらゆる国民にとって、まったく同じであることを告げるのです。イスラエルは、神の選びの民であり、特別に神の啓示と預言を知ることを許され、神の特別なご介入と守りを経験してきた民です。異邦人は、真の神を知らず、聖書とはまったく無関係の歩みをして来た民で、中には非常に不道徳な国もありました。それであっても、救いの方法はまったく変わらないというのです。
神が唯一であるならば、その基準も一つということです。そこには、不公平はまったくありません(ロマ3:22)。すべての人が同じ神に造られ、同じ神の前に責任を持ち、やがて同じ神の御前に立つのです。しかし、すべての人が同じく、この神の御前に罪人であり、裁かれて当然の者であり、それでありながら、恵みによって救われるという道についてもまったく同じなのです。
ここには、真の平和があり、秩序があります。人は、この唯一の神との平和を持つことによって初めて、一つとなり、互いの平和を持つことが出来るのです。

4、神が唯一であるから献身の対象となる

 申命記6:4で、「主は私たちの神。主はただひとりである」と宣言した後、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という命令が続きます。聖書の神が「私たちの神」であり「ただひとりである」ということを根拠として、あなたのすべてをつくして、この神を愛せよという命令があるのです。対象がいくつもあれば心が分かれます。しかし、真に礼拝すべき、真に信頼すべきお方が唯一であるからこそ、その方に私たちのすべてを集中することが出来、また集中して良いのです。そこには、中途半端さがありません。だからこそ、このお方がどのようなお方であるかが重要となります。私たちが抱く神観が間違ったものであれば大変なことになります。しかし、正しければ、これほど確かなものはなく、これほど力強く、有意義な人生はないのです。本当に私たちが唯一の真の神を正しく知るならば、迷いや、ゆらぎから守られます。

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