神は聖なる方

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1、道徳的属性

 神の本性というとき、他の存在にはない神ご自身しかもっておられないご性質であり、その性質そのものが神ご自身の存在と深く結びついている、あるいは神の実質と言えるものでした。これから学んでいく、神の道徳的属性は、人間にも与えられている性質であるが、神の持つそのご性質は質と程度の両面において、人間の持つそれとは遙かに高く、完全であるものについて言います。また、道徳的属性自体も、神の属性と言えます。つまり、神が知識、能力、空間、時間において無限・完全なお方というだけでなく、神は道徳的な存在であるということです。また、神は人格を持つお方であると同時に、その人格は道徳的であるという意味も持ちます。人間が考え出す神々は、道徳性を持たないエネルギー的な非人格的存在であったり、人間と交わることの出来る存在ではあるが、その道徳性においては随分問題を持っていたりします。しかし、聖書の啓示する神は、まず道徳性において完全なお方であります。これは、神を信じることにおいて、神に喜ばれることにおいて、神を信じる生活において、道徳というものが決して切り離せないということを意味します。また、人が神のかたちに似せて造られたという聖書の言葉は、人間は道徳性を持つ存在として造られたことを意味し、その道徳性の源泉、基盤、模範は神であることを意味します。また、神が最初にお造りになった人間は、神の道徳性と比べることはできないにしても、道徳的に欠けのない存在であったということです。その意味では、神の道徳性を知ることは、人間本来の姿を知ることにも繋がります。

2、神の聖

 神が聖であられるということは聖書の主張です。神ご自身が「主であるわたしは聖であ」る(レビ20:26等)と主張され、天使達も「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主」(イザ6:3等)と言って神に栄光を帰しています。天使達が神について言うとき、「聖なる」と表現しますが、神ご自身は「聖なる」と言わず、「聖」と言われます。つまり、神ご自身の存在こそが「聖」そのものであるということです。神が聖であられるということは、ほとんどの学者が道徳的属性、伝達的属性として扱っています(つまり、人間も質と程度において神より劣るけれども、与えられている性質)。しかし、聖というのは他の道徳的属性とは、性質をまったく異にするものでもあります。それは、性という言葉が、神ご自身に属するものを指すのに使われ、それ以外のものと決して混ぜてはいけないもの、むしろ分離しなければならないものとして扱われているからです。神が、ご自分の民にご自分のように聖くありなさいと言われる時、「聖別」せよ(レビ11:44等)とも言われており、この世の神に属さないあらゆるものから自分を分けて取り、神に属する者としなければならないと言われています。この意味で、「聖」というものは、本来神にしかないものです。人間が最初に神に造られた時は、まったく神に属する者で、他の思想の支配をまったく受けていませんでした。神の「聖」に与っている存在でした。しかし、サタンの誘惑に従い、神以外の思想、サタンの思想に身をゆだねてから、神に属する者ではなくなりました。その結果(罪を犯した結果ですが)、エデンの園から追放され、神から隔離された存在となったのです。人間が自分から離れ、その結果として聖なる神と共存する場所から追放されたというのが聖書の教えです。そして、その堕落の影響は、全人類に及んだため、この世は神の聖とはまったく相容れない世界となったのです。

3、神の聖さは罪人にとっての恐るべきもの

 神の聖とは、神ご自身しか持たないものとして距離感のある言葉として聖書は使っています。とくに罪人となった人間にとって、近寄りがたく、恐ろしいものであり、一歩たりとも近づけない存在となったのです。神が恐ろしくなったのではありません。人が罪を犯す前は、エデンの園において神と人とは、神がいと高き方であるという秩序を持ちながら、人間は神と親しく交わっていたからです。しかし、サタンの声に従い罪をおかした人間は、神の声を聞いて恐れ、身を隠そうとしたのです(創世記3章)。
 神ご自身、イスラエルに対して特別な許可がない限り決して近づいてはならない存在として、ご自分を示されました。燃える柴を見て近づいてきたモーセには、「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である」(出エジ3:5)と言われました。エジプトを脱出したイスラエル人にご自分を示されるとき、神が指示された山の周囲に境を設け、イスラエルの民には衣服と身をきよめさせ、なおその境界に近づくことも許されず、モーセにだけみことばを語られました。そしてそのモーセも、神の栄光を見るとき、神に守られて、岩の裂け目に隠れて、なお、後ろ姿しか見られないほどでした(出エジ33:20~23)。
 イザヤは、預言者として神に召されるとき、天使達が「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」と呼ばれる、聖なる神のご臨在を垣間見、「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」(イザ6:5)と言って恐れました。これは神の神殿でのできごとでしたから、イスラエルの中でイザヤは敬虔な人物であったことが伺えます。そのようなイザヤでさえ、神の聖を垣間見たとき、自分が汚れたものであるということを、いやというほど示されたのです。「もうだめだ」ということは、「もう滅んでしまっている」という意味のことばで、非常につい良い意味です。この世で最も道徳的な人物であっても、神の聖さを一目見たならば、立ち上がることもできないようなもの、それが神の聖なのです。私たちの罪ある目は、神のこのような聖を見ることが出来ず、そのゆえにこのような恐れも知らないままでいることも少なくありません。モーセでさえ、そうでした。イザヤも、神がご自分を啓示して下さって、初めてこのような経験をしたのです。神とは、このようなお方であることを私たちは知らなければなりません。また、この神の聖にふれて初めて、私たちは本当の自分の姿を知ることが出来るのです。この神の聖を私たちに示すのは、聖書と、聖なる神ご自身であられる聖霊をおいて他にありません。

4、聖なる神の招き

 神の聖というものは、罪人にとって、非常に恐ろしいものであり、近づくことのできないものでした。しかし、その神が人間をご自分のもとに引き寄せようとされた歴史が旧約聖書であり、その道が開かれた尊い知らせが新約聖書です。
 神は、イスラエルの民に自分を聖別するように命じられました。それは、罪人にとって決して近づくことのできないお方に近づけるどころか、ご自分に属するものとしようという神の好意・愛顧に他なりません。聖別されたならば、ご自分のものではない、滅ぼされるべきすべてのものから区別されて、聖なるものである、ご自分の国に属する者として見てくださるということなのです。神は、「聖」であられると述べました。もし、この聖の基準を少しでも下げるならば、神は神でなくなるのです。それは、自損される神には絶対にあり得ないことです。また、神が聖であれるならば、神の造られるもの、神の所有のものはすべて聖であるはずです。それが一点でも覆るなら、この世界そのものが聖でなくなり、すべての秩序が崩壊することを意味します。今のこの世は、そのような世界ですが、神の哀れみによって、保たれています。本来、神の聖を傷つける存在は滅ぼされなければなりません。この意味で、神はご自分の聖を守ることに熱心であられます。またそれを傷つけるものには、大いなる怒りをもって望まれます。しかし、その神が罪人に招きの手を延べておられるというのは、驚くべきことなのです。

5、罪人の避け所なる神

 このようなお方が、道徳的な退廃した街の影響をなお受けているコリントのクリスチャン達を「聖なるものとされた方々」(Ⅰコリ1:2)と呼ぶのです。それは、ひとえにキリストの十字架の贖いの故です。ご自分の聖をわずかでもゆがめることをなさらない方、その聖を汚すものには、大いなる怒りをもって臨まれる方にとって、これはあり得ないことです。神はこの大いなる怒りを、罪なき方、まったく「聖」であられる方に向けられたのです。この方こそ救い主です。
 神は近づきがたい方であるとともに、神ご自身が罪人である私たちの避け所でもあると聖書は語ります。ヘブル書4:13では、神の御前にはすべてがさらけ出されていると教えながら、14~16節で、イエス・キリストという大祭司のあわれみを受けて、大胆に神の恵みの御座に近づくように招かれています。近づきがたき聖なる方を、詩篇の作者は、避け所と呼びます。救い主をいただいたキリスト者は、恐るべき聖なる方に対し、キリストの贖いを避け所として、恐れつつも喜んで近づくことが出来ます。そのように近づくことのできる神は、罪の問題を抱えたこの世からの避け所ともなります。
 そして、神はこの世のどんなものとも区別して、キリスト者をご自分の聖なる民として見てくださり、世の終わりの裁きの時にも、御怒りから逃れさせてくださるのです。キリスト者は、大祭司アロンが「主への聖なる者」という記章を額につけ、聖なる装束を身につけたように、聖なる者として見てくださるのです。そして、キリスト者自身もこの聖なる方に似せられ、聖められることが目標であり、望みなのです。

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