義であり公平である神

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1、義なる神

 聖書の神は義なる神だと教えられています(創世記18:25、申命記32:4、詩篇11:7など)。神が義であられるということは、神ご自身の内にはまったく不義がないこと、神ご自身が思い計り、実行されることがすべて正しいことを意味します。それだけでなく、聖書の義という言葉は、法律的な用語でもあります。かならず義と不義とが区別され、裁かれるものとして書かれています(申命記10:17~18、詩篇98:9、ダニエル9:14など)。神が義であられるということは、神の義にもとる者は、必ず裁かれ、罰せられなければならないことも意味します。
 このように神が義であられるということを考える時、神が義であられるならば、なぜこの世に悪が存在するのか、完全に正しいと言えるものがこの世に存在するのか、正しいといえる事柄は一つしかないのか、それとも複数存在するものなのか、悪を行っている者が栄えることがあるのはなぜなのか、あるいは神は非人格的な裁判官なのかという疑問が起きうるでしょう。神が義であるという聖書の教えを知ろうとすることは、これらの疑問と真剣に取り組まなければならないことを意味します。そのことを考える時、神が義であられるということを、自分の人生において真剣に信じるということは、様々な困難と直面することを予感させます。しかし、それに取り組んでいくことは、神が義であられることの尊さと、神がご自分の義を、罪深い人間にお与えになろうとしていることが、いかに豊かな恵みであり、特別なことであるかを知らされていくことでもあるに違いありません。

2、完全な神の義

 聖書は「主は岩。主のみわざは完全。まことに、主の道はみな正しい。主は真実なので、偽りがなく、正しい方、すぐな方である」と告げます(申命記32:4)。
 また、神ご自身、ご自分が義であられることを主張されます。ヨブ40:1~8では、神ご自身がヨブに現れ、語られます。ここで神はご自分が全能者である、つまりこの世界の秩序を定め、善悪を定め、すべてを知り、見極めることの出来る方であるから完全に正しいと主張されると同時に、人に論じ合おうとも言われます。聖書は、真に神と論じ合って自分の潔白さを主張できる者は一人もいないことを教えます。ヨブは、友人達に対して、あるいは(神の臨在を目の前にする以前)神に対して、言いたいことがたくさんあり、多くの言葉で自身の潔白を主張しました。しかし、すべてを知っておられる神を目の前にして、神から論じ合おうと言われたとき、ヨブは言葉を失ったのです。これと同じようなことを神は、イザヤ43:26~28でも語られます。この「論じ合おう」という言葉はイザヤ1:18でも語られます。
 ヨブ40:8ではは、神以外のものを義とするとき、神を裁く者となり、それは神を罪に定ようとする行為であることが教えられます。聖書には、決して二つの義は存在しません。どちらかが正しければ、どちらかは不義なのです。神の義を認めるならば、必然的に人間は不義であることを認めなければなりません。
 神が義であるならば、私たちが「本当に正しいことを知る」ということと、「神を知る」ということが同義であることを認めることとなります。それは、何が真に正しい基準であるかを追求することは可能であり、その答えもあるということ、そしてそれは不変であるということです。それと同時に、神の偉大さ、無限性を覚えるならば、神の義も人間には知り尽くすことのできないもの、むしろ私たちの最大に知りうる義(人には充分である)も神の義の一部に過ぎないと言うこともできます。そうであるならば、たとえ人から罪の性質がすべて取り除かれたとしても、なお人間は神に信頼し、神に聞くことなしに、義に生きる事はできないということです。むしろ、聖書は、アブラハムが義なる神とその約束を信じたことにより、それを「彼の義と認められた」と言っています。約束というのは、まだ成就していないことを信じることを要求するものです。成就していないということは、まだ知らないということでもあります。しかし、それは全能にして義なる神の御約束なのです。それを信じるということは、私たちの人生において神が義であられ、義をなすお方であることを信じなければなりません。神が義であられ、義をなすお方であられるならば、その神の御言葉、御約束に信頼して生きることは、神の義の中に生きることでもあります。それは、たとえ神の義のすべてを知らされていなくても、あるいはほんのわずかしか知らなくとも、さとしを与える方、知恵を与える方、わざを与える方が義であるがゆえに、神のお言葉を信じる人の生き方も義となるはずです。

3、神の義は人を救う

 聖書は、神の義が、それにもとるものが断固として裁かれなければならないという厳粛な面を教えます。しかし、それと同時に、神の義は、神の救いのわざと関連づけられて語られています(Ⅰサムエル12:7、詩篇35:28、51:14、71:15)。
 神の義は、神のみが完全な義を持ち、神の義に従わない者を罰するという側面を持つと同時に、愛と哀れみという神のご性質を誠実に行われるという意味も持つからです。それは神の民イスラエルを不義な抑圧者や迫害する者から救い出す(詩篇40:10、イザヤ11:4)義であると同時に、義から遠ざかっている者たちに対し、ご自分の義に近づけることを告げています(イザヤ46:12~13)。
 先ほど述べた、神が人に対し「論じ合おう」と語られた箇所のうち、イザヤ書の2箇所は、罪を取り除き、雪のように白くしよう、あるいは罪をぬぐい去り、思い出さないと語る言葉と合わせて語られています。ヨブ記においても、理解することのできない長い苦しみの中でも、すべてにまさって偉大な義なる神の前にひれ伏して、自分を義としたことを悔い改めたヨブに対し、神はそのヨブを罪に定めず、むしろ受け入れ、ヨブを責めた友人のためにとりなす立場を与えられます(42:8)。
 この時、ヨブの苦しみがサタンの策略であったことが読者には知らされますが、ヨブ自身には知らされることなく、解決に導かれます。ここには、義なる神に対する私たちの持つべき姿勢と、その神に受け入れられる者として、お取り扱いを受けることのできる幸いが教えられています。これは、私たちの日常生活で、不公平に思えること、神が義を行うことを差し控えられているように思うこと、悪が裁かれないままにすまされるように思うことの中にも、義なる神のご計画が必ずあることを教えられます。その神のお取り扱いに疑問を持つとき、神は私たちに「来たれ、論じ合おう」と言われます。全能なる神は、私たちにその理由を説明する義務を負っておられません。しかし、必ず義を行われる―それは神が愛とあわれみを誠実に行われることを含む―ことを私たちは聖書から教えられていきます。
 義を行われるということは、悪には罰を報い、正しい者には報いを与えるということでもあります。この地上の出来事だけを見れば、神は不公平に見えます。詩篇の作者もその事で苦悩しました。しかし、神の聖所に入ったとき悪者の最後が滅びであることを悟ります(詩篇73:17~20)。神の義と神の公平を考えるならば、すべての人は罰の対象となり、滅びるしかありません。神にあわれみがなく、公平でだけあったのならば、必ずそうなります。しかし、神の愛と哀れみに満ちた義のゆえに、神は人の罪を赦し、きよめ、取り除き、ご自分の義に与らせようと願っておられ、その道を備えてくださったのです。

 そのような神に、私たちは神の義を拠り所として祈ることができます。アブラハムは、神の義を根拠として、甥のロトが住むソドムとゴモラの為に、身を挺してとりなしました。モーセもしかりです。そして申命記32:3,4には、神が義であられ、忠実に義を行われる方であられるからこそ、神に栄光を帰すように命じられています。だからこそ神は礼拝が捧げられるべきお方であり、礼拝をお受けになる資格を持っておられる神なのです。この神の義の完全さを知るとき、私たちの心に平安が与えられ、感謝と讃美がわいてくるのです。

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