憐れみと慈しみに富む神

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1、あわれみ深い神

 聖書の神は聖なる神、義なる神であられると同時に、あわれみ深い神でもあられます。もし、神があわれみということなしに、義と公平だけであり、それを実行されたとしたならば、この地上で裁かれずに生き残ることの出来る人は、一人もいないでしょう。もし哀れみがなければ、神の義と公平は私たち罪ある人間にとって非常に恐ろしいもの以外の何者でもありません。生かされる理由、頼れる理由、御前に出る理由のすべてが絶たれてしまいます。ですから、神のあわれみ深さというのは、私たちと神の関係を知る上で、私たちが神に依り頼む上で、重要な側面を持っております。

2、神のあわれみとは

①ご自分のもの、ご自分の子に対する思い

 まず、「あわれみ」という言葉の意味について学びます。旧約聖書の「あわれみ」という言葉は、もともとは内蔵、とくに母の胎を表す言葉です。そこから転じて、母が自分の腹を痛めて生んだ子どもに持つ思い、強い思いやりを示すようになりました。実際にイザヤ49:15において、ご自分の名を置かれた街、エルサレムに対して、母親が自分の子をあわれみ、忘れない、それ以上に神はエルサレムをあわれみ、忘れないことを告げておられます。そして、この「あわれみ」は、ご自分の子である故に、ご自分の所有であるゆえに持つ思いでもあります。この、子であることと、所有であることには、質的条件が伴いません。もし、神が私たちを質的条件だけで取り扱われるならば、私たちは神の義と公平によれば、とうの昔に滅ぼしつくされてしまうはずであったことを聖書は告げます。子を持つ親は、もちろん自分の子であるが故に、子どもの質、つまり人格や資質に無関心ではありません。むしろ、期待し、養い育てます。しかし、期待が裏切られたからと言って、思い通りにならないからと言って見捨てたり、他の者と取り替えたりは通常しません。そこには、能力や損得などの条件とまったく別次元の根拠があります。それが「あわれみ」です。さらに神のあわれみは、人間のあわれみとも別次元です。先ほどのイザヤ49:15でも、母のあわれみに喩えながらも、たとえ実の母がその子を忘れることがあっても、神は忘れないと言われています。
神旧約聖書では、この「あわれみ」という言葉が、「惜しむ」という言葉とセットで使われている箇所が11回もあります。それは、聖書の言う「あわれみ」という言葉が「惜しむ」という側面を持っていることを示します。たとえすべての条件は、裁かれるにふさわしいとし、選ばれるにふさわしくないとしても、神の「惜しむ」という根拠は、これらの条件に優ります。神は、異教の国であり、イスラエルに対して残虐な国であったアッシリヤ帝国の首都ニネベの民を惜しむと言われました。預言者ヨナは神の命令で、40日後に神がニネベの罪のために、ニネベを滅ぼされると告げました。ヨナは神のあわれみを知っていた故に、彼らが悔い改めれば、神の怒りから救われる事を知っていました。それは、ヨナにとって耐え難いことでした。実際に、ニネベの人たちが悔い改めて、神が裁きを取りやめられたとき、ヨナは非常に怒りました。しかし、神は灼熱の太陽を遮るとうごまをヨナが惜しむならば、それ以上に神は、ニネベに生きていた十二万以上の人間と家畜を惜しまないでいられようかと、ヨナに告げたのでした(ヨナ4章)。これは、私たち人間に考えられないことです。イスラエルに敵対する国であり、強国であるアッシリヤを、どうしてゆるしてしまうのか。これは決して人間の持ち得ないあわれみです。

②無条件的なあわれみ

 神がモーセにご自分を啓示された時、
わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよう。わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。
出エジプト33:19
 と語られました。ここには、神があわれまれるか、あわれまれないかは、まったく神の側に選択権があることが告げられています。この決定に対して、人間が条件をつけることは、まったくできないというのが聖書の教えです。
 ここに人間に対する神のあわれみを二段階に考えることが出来ます。第一に、人間は神に受け入れられる条件を全く持たないということです。この人間が神に受け入れられるとすれば、それは神のあわれみにかかっているということです。第二には、そのあわれみは人間が神に対して、ある条件を持ち出して、当然のことのように要求することはできないということです。神が「あわれまない」と宣言されれば、それは絶対的なものです。しかし、もし神が「あわれむ」と宣言されるならば、それはどれだけ特別なことでしょうか。

3、ローマ9:19~33に表されている神のあわれみ

 この箇所には、神のあわれみの尊さがよく表されています。まず、神はこのあわれみが無条件的、つまり神の選びにかかっていることを告げます。その例として、神がイサクの次男ヤコブを選ばれたことを挙げます。ヤコブは、「まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの計画の確かさが、行いにはよらず、召してくださるようにと、「兄は弟に仕える。」」と、ヤコブの母リベカに告げたことが語られます。そして、モーセに神が示された先ほどの出エジプト33:19を引用し、「したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神による」という結論を出しています(9:16)。そして、19節には、それに対する私たち人間の疑問が代表されています
すると、あなたはこう言うでしょう。「それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう。」 (9:19)
神をどのようなお方であるかを知らないと、神を私たち人間のように考えてしまい、神がそのようなご計画を立ててしまったら、人間には何の責任もないではないかと言うのです。しかし、それに対し神は、人間と同列にならべられるべきお方ではなく、陶器師と器の関係もって示される関係のお方であることを伝えます。
しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と言えるでしょうか。陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。
(9:20~21)
神のあわれみを知るには、まず、この神との正しい関係を踏まえなければなりません。そして次のように語られます。
ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。(9:22~23)
 陶器師は、よい器ができるまで、悪い器はいくつも、いくつも壊していきます。悪い器は陶器師の値打ちを下げるからです。しかし、神は人間のように、失敗をなさる方ではありません。どのような目的で、私たちをこのように造られたのか厳密な意味では解りませんが、少なくとも、今の私自身を見るならば、現に罪深い、弱い存在です。もし、聖書の神以外が、聖書の神のような権限を持って、このような私を見られるならば、間違いなく壊される者であります。しかし、そのような者を選び、ご自分のものとし、ご自分の子としてのあわれみと、いつくしみとを注がれるのです。そして、実は、それは究極的には、神の豊かな栄光を自分自身が味わい、またそれを知らせるための器としてくださったということを教えています。
 ここにおいて、神の無条件的選びは、あわれみを豊かに知らせるものとなります。なぜなら9:25~226で
  それは、ホセアの書でも言っておられるとおりです。「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ。
『あなたがたは、わたしの民ではない。』と、わたしが言ったその場所で、彼らは、生ける神の子どもと呼ばれる。
 と言われていて、ユダヤ人以外の異邦人は「わが民ではない」と言われた者であり、「愛さなかった」と言われる者です。それを「わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ」と言われます。それを可能にするのが、神の「あわれみ」です。人は、神の「あわれみ」なしに決して受け入れられる存在ではありません。しかし、神が「あわれむ」と宣言されるならば、それは何にも優って、私たちを保証するものであり、なぐさめとなります。
 聖書は、私たち人間のために神が救いを備えられた事、そしてその道を教えます。神が人をお救いになる大きな根拠、動機となるのが、このあわれみです。もし、神にこのあわれみがなく、義と公正さだけがあったのならば、私たちはとうの昔に滅ぼされていたはずです。しかし、今なお生きる事が許され、太陽、空気、雨、食物などの自然の恵みを受けています(一般恩寵)。これは、神のあわれみのゆえです。それにも優って、神は罪を持った人間をもう一度神のものとし、神のかたちを回復させ、聖なる立場を与え、ご自分の子にしようとして、救いのご計画を立てられました(特別恩寵)。これは、測ることのできない、神の大きなあわれみそのものなのです。

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