真実なる神

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1、神の真実性

 神の真実性とは、神が真の神であり、常に真実を語られ、真実を行い、忠実に行われることを意味します。聖書の非常に多くの箇所は、聖書の教える神が真実の神であると教えます(申命記32:4、詩篇31:5、イザヤ49:7、ローマ3:4、Ⅰコリント1:9、10:13、Ⅰテサロニケ5:24、Ⅱテサロニケ3:3、Ⅱテモテ2:13、ヘブル10:23、11:11、Ⅰペテロ4:19、Ⅰヨハネ1:9、5:20)。神が真実であられることは、クリスチャンの信仰の根幹に関わります。もし、神が真実の神ではなかったら、どうなるのでしょうか。そうするなら、聖書の神は実際におられるのか、おられないのかわからないことになります。おられるにしても、聖書の言うとおりの神ではない可能性が出て来ます。そうすると、クリスチャンが神を信じるということは、単なる気休めになってしまいます。現実にどうであるかは、無関係であり、本人がそう思っていればよいということになります。そうしますと、聖書が影響を与えるのは、その人の精神世界だけであり、現実には何の意味も持たなくなってしまいます。しかし、聖書は、神は真の神であり、真実の神であると、非常に多くの箇所で、しかも確信をもって述べています。神が真実であられるならば、その神を信じる者は、確固とした土台を据えることになります。そして、その神を知り、その神の語られることを知ることは、現実を正しく把握することに繋がり、その信仰は現実生活のあらゆる面において、また、未来において、死後も含む未来において、確実な知識と判断を与えることを意味します。クリスチャンの信仰は、神の真実性にかかっていると言っても過言ではありません。
 神が真実であられると言うことは、神が唯一であるということとも関わってきます。複数の宗教が存在しいてもかまわないと考えるならば、必然的に、どの宗教もそれが真実であるかどうかを問わないということになってきます。しかし、真実の神がおられるのならば、真の宗教も一つでなければならないことになります。そして、真実の神がおられることを信じる人は、真の宗教を探求するはずです。
しかし、主はまことの神、生ける神、とこしえの王。その怒りに地は震え、その憤りに国々は耐えられない。あなたがたは、彼らにこう言え。「天と地を造らなかった神々は、地からも、これらの天の下からも滅びる。」と。 エレミヤ10:9~10

2、真実な神

 神が真実であられることは、神の本性であります。つまり、神であるということと、真実・真理であるということは、まったく一つなのです。神は「偽ることのない神」(テトス1:2)であられると同時に、偽ることができない(ヘブ6:18)とも言われます。「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである」(Ⅱテモ2:13)とも言われていて、神が真実でなくなるとしたら、それはご自身を否むことになると言われています。しかし、神は、それができません。つまり、神が神であられる以上真実以外はあり得ないのであって、偽らないだけではなく、決して偽ることのできないお方であります。

3、神の言葉は真実

 これに対し、人間はなんと偽りに満ちていることでしょうか。とくに商売などにおいて、私たちは最初から疑ってかからなければならないことがなんと多いことでしょう。そこには、嘘、誇張、ごまかし、都合の悪い事実の隠蔽などがあふれています。それは、故意の偽りですが、そうでなくても、真実であるということは人間には不可能と言えます。それは、人間の知識は不完全であり、とくに明日のことはわからないからです。不完全な知識と悟性から導き出される言葉と行いは、私たちがどれだけ真実であろうと願っても、常に真実でない可能性に満ちています。しかし、神は全知の神です。過去・現在・未来にわたって、あらゆる場所にある、見えるものも、見えないものも完全にご存じの神が語られることば、下される判断は、常に真実であります。「完全な知識を持つ方」(ヨブ37:16)の言葉は、常に真実です。
 神の言葉が真実であると言うときに、神の約束が真実であることも指します。このことは、神の全知性だけでなく、神の全能性とも関係します。私たち人間は、様々な弱さの故に、約束が守れないことがあります。忘れたり、力が足らなかったり、意志が弱くて実行できなかったりするものです。しかし、神は契約を忘れず絶えず思い起こされる方です(創世記9:16、詩篇106:45等)。また、90歳の不妊のサラに、約束に従って、子を生ませられたことによって、また何より預言に従ってイエス・キリストをよみがえらせられたことによって、約束を成し遂げる力があることを示されました(ローマ4:19~24など)。そして、神はご自分の「ことばを実現しようと、わたしは見張っている」お方であると言われています(エレミヤ1:12)。

4、クリスチャンの信仰は神の真実にかかっている

 聖書は、神が私たちの罪をゆるし、きよめてくださるのは、神が真実であられるからと言います(Ⅰヨハネ1:9)。クリスチャンが罪から守られ、最後まで霊、たましい、からだが守られるのも、クリスチャンの信仰深さや、忠実さによるのではなく、神の真実さによると言われています(Ⅰテサロニケ5:24、Ⅱテサロニケ3:3)。そして、神の真実さは、私たちに耐えられないような試練は与えられない保証であるとも言われています(Ⅰコリント10:13)。神を信じることは、神が真実であられることに確認の印を押すことであるとも言われています(ヨハネ3:33)
 しかし、神が真実であられるからと聖書が語る箇所は、ほとんど、現実からは神が真実であられることが理解できないようなときにおいて、神の真実に信頼するように勧められています。神は約束を思い返されるだけでなく、民に対しても約束を思い起こさせられる方でした。アブラハムにたいしても、75歳の時に子孫を与える約束をされ、実際に子が与えられたのは、実にその25年語でしたが、その間何度かアブラハムに現れ、契約を確認し続けられました。今のクリスチャンも、真実のことばである聖書によって、神が真実であられることを知り、またそのことばによって支え続けられています。

5、神の真実は信じる者に真実な歩みをさせる土台となる

 人間は知識においても、能力においても限界があり、真実に生きることに非常な困難を覚えます。それだけでなく人を恐れ、人の反応を気にするために、真実を曲げることも少なくありません。しかし、真実である神を知ることは、自分の能力にかかわらず、誤りのない知識の土台を築くことになります。神ご自身と、神の知識が真理そのものだからです。
 また、真実の神が自分自身を知っておられるということを知るならば、対神の関係において偽りから守られます。神はすべて知っておられるので隠すことができないからです。人が偽ることの一つの大きな理由は、罪を持っているからです。常に負い目があるために、真実の自分をさらけだすことに恐れを覚え、その結果隠し、偽ります。それは、アダムとエバが最初に罪を犯したときに神から隠れたところからすでに始まっています。しかし、神は私たちのために弁護する方をお与え下さることによって、罪ある私たちが偽ることなく神の御前に出られるようにしてくださいました(Ⅰヨハネ2:1~2)。
 神こそまことの裁き主であり、すべてをご存じの神の裁きは常に真実です。そして、人をゲヘナに投げ込む権威を持つお方です。しかし、そのお方と和解することができるならば、私たちはゲヘナに投げ込む権威を持ったお方の前で、偽ることなく、真実であることができるのです。このことは、そこまでの権威を持っていない人間の前で真実に生きることのできる土台となります。この土台がなければ、自分の罪や失敗を打ち明けることは、恐ろしいことに他なりません。イエス様が地上におられた時代、行いにおいて熱心であったパリサイ人たちが、かえって偽善に陥ってしまい、他の人たち以上に、偽善をあばかれることを恐れる者となってしまい、人を恐れる者となってしまいました。自分の力で、真実な歩みをしようとすることの限界を見ます。しかし、もっと恐ろしい方との和解がかなうとき、その恐れから解放され、真実でない者が真実な歩みをする力を与えられるのです。

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