主権者なる神

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1、神の主権性とは

 聖書の言う主権性とは、ひとことで表すならば、自由に裁量を下す権威、自由裁量権ということができます。あらゆることがらについて、ご自分ひとりで決めることが出来、命令し、命令したとおりに行わせることができるものです。そこには、何の条件もなく、どのような環境にも被造物(人、物質、御使いなどの霊)にも左右されず、ご自分の決められたことを、決めたとおりに遂行することが出来、何ものもそれに対して抗議する権利もなく、妨げることもできません。それを主権と呼びます。
 聖書は、神の主権を次のように述べています。「私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行なわれる」(詩115:3)。「地に住むものはみな、無きものとみなされる。彼は、天の軍勢も、地に住むものも、みこころのままにあしらう。御手を差し押えて、「あなたは何をされるのか。」と言う者もいない」(ダニ4:35)。「…王国もあなたのものです。あなたはすべてのものの上に、かしらとしてあがむべき方です」(Ⅰ歴29:11)。「見よ、すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの」(エゼ18:4)。「みこころによりご計画のままをみな実現される」(エペ1:11)。「というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです」(ロマ11:36)。
 以上の御言葉は、次の三点に要約できます。(1)神の主権性は、全世界を包括する。ご自分の造られた最も高い者から最も低い者に至るまで含んでいる。(2)その権威は絶対的である。神は権威を持つことについて何の制限もない。神は天の軍勢と地に住む者たちの中にあってご自分の喜ぶことを行なわれる。(3)その主権は不変である。無視されることも、拒まれることもあり得ない。その主権はすべての被造物を手中に収め、霊的世界および物質世界を完全に支配しておられる。
 この主権性は、神の卓越した完全性から生じる権利でありますが、同時に神のみが持つことが出来るものであるという点で、神の本質的なご性質と言うことができます。第一に、神は創造者であり、保持者であられるからこそ、ご自分が創造したものに対して、あらゆる権威を主張することのできる唯一のお方です。聖書は創造主と被造物の関係を陶器師と陶器の関係になぞらえています。『ああ。陶器が陶器を作る者に抗議するように自分を造った者に抗議する者。粘土は、形造る者に、「何を作るのか。」とか、「あなたの作った物には、手がついていない。」などと言うであろうか』(エゼ18:4)。陶器師は、様々な形の陶器を作る自由があります。そして、実際に陶器師が作ったゆえに、その陶器は存在するのです。その陶器が陶器師に対して、なぜこのように造ったのかということは言えません。そして、創造者は被造物の所有者であり、ご自分が所有されるものに対して正統な権利を主張することのできるご存在です。イエス・キリストは、ぶどう園の主人の譬え話をされたとき、主人が、労働者の働き以上の報酬を与えたことについて、「自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか」(マタイ20:15)と語られました。
 それだけでなく、完全であられる神は、すべてにおける正統な権威をご自分の内にもっておられます。義である神は、裁く権威を内在しておられます。全知・全能なる神は、語られる言葉をすべて、誤りなく実現させる信頼性の内に権威を内在しておられます。そして、永遠不変なる神は、その権威において揺るぐことがありません。聖なる神は、その崇高さにおいても権威を持っておられます。

2、神の主権はあらゆる権威の源

権威というものは、誰かに与えられて初めて認められるものです。民主主義であるならば、国民主権であって、国民が選挙によって選ぶことによって、その人に権威が認められます。そのため、(実際に、国民の主権がどれだけ機能するかは別として)民主主義における政治家は、よしにつけ、悪しにつけ、国民の顔色を伺うことになります。選挙によらない場合は、武力、血筋に根拠を求めたり、古代エジプトなどでは、王名に神々の名を含めることによって権威を求めたりしました。しかし、聖書の神は、誰にも権威の根拠を求めることもなく、誰の許可も必要としません。全能にして、永遠、不変の創造者なる神は、自然条件、時、場所などにも左右されず、自由に決断し、決断したことを行われ、命じられます。そして、この世のあらゆる権威もすべて神が与えられたものであると、聖書は教えます。聖書の神は、歴史的世界帝国の古代バビロニアの皇帝ネブカデネザルに対しても、その主権、支配権は、神が与えられたものだと宣言されました(ダニエル4:24~25)。そして、神の裁きにより理性を失ったネブカデネザルは、理性を取り戻したとき「その期間が終わったとき、私、ネブカデネザルは目を上げて天を見た。すると私に理性が戻って来た。それで、私はいと高き方をほめたたえ、永遠に生きる方を賛美し、ほめたたえた。その主権は永遠の主権。その国は代々限りなく続く。地に住むものはみな、無きものとみなされる。彼は、天の軍勢も、地に住むものも、みこころのままにあしらう。御手を差し押えて、「あなたは何をされるのか。」と言う者もいない。私が理性を取り戻したとき、私の王国の光栄のために、私の威光も輝きも私に戻って来た。私の顧問も貴人たちも私を迎えたので、私は王位を確立し、以前にもまして大いなる者となった。」(ダニエル4:34~36)と言って、自分の権威が神から与えられたことを認めました。新約聖書でも、イエス・キリストを十字架につける判決を下す立場にあった総督ピラトに対して、イエス様は、その権威は神から与えられなければないものであることを語られました。「そこで、ピラトはイエスに言った。「あなたは私に話さないのですか。私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか。」イエスは答えられた。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きい罪があるのです。」」(ヨハネ19:10~11)。 また、パウロも「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです」(ローマ13:1)と言っています。

3、主なる神

 新約聖書では「主権」という言葉は、「キュリオテース」という言葉を使います。これは、「主(キュリオス)」が持っている本質を表す言葉です。日本語でも「主権」は、「主」と「権」からなっています。主権とは、主が本来持っている権威です。
 聖書は、旧約でも新約でも全体を通して、常に神を主と呼びます。旧約聖書の主という言葉は、しもべが主人を呼ぶとき(創世記24章)、妻が夫を呼ぶとき(創世記18:12)、あるいはエジプトの君主(創世記40:1)に対しての呼称として使われています。相手が自分に対して所有権、支配権を持っていることを表明するときに、主と呼んでいます。そして、聖書の神が、ご自分がエジプトから救い出されたイスラエルの民と契約を結ぶとき、モーセは次のように語りました。「あなたがたの神、主は、神の神、主の主、偉大で、力あり、恐ろしい神。かたよって愛することなく、わいろを取らず、みなしごや、やもめのためにさばきを行ない、在留異国人を愛してこれに食物と着物を与えられる。」(申命記10:17~18)。これは、神というお方は、この地上で主と呼ばれる存在(神と呼ばれる存在も人も含め)のすべてに対して、所有権、支配権を持ったお方だという主張です。その根拠として、同10:14では、「見よ。天ともろもろの天の天、地とそこにあるすべてのものは、あなたの神、主のものである」と語り、聖書の神が天上、地上を含め、すべての被造物に対して、所有権を持っておられるからだと言っています。だから、「イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守ることである」(同10:12~13)と言われています。神が主権者であられるからこそ、そのお言葉に従うときに、幸福が保証されるのだという宣言です。

4、どのような出来事も神の許可なしには起こり得ない

ダニエル4:35で見たように、誰も神がなそうとされることをとどめることはできません。それだけでなく、聖書は神のお許しなしには、何事も起こり得えないことを教えています。イエス・キリストは、「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません」(マタイ10:29)と教えられました。その前には、人を死んだ後に、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる事も教えられています。そして、その結論は「だから恐れることはありません」(10:31)です。聖書では、サタンでさえも神のお許しなしには何事も出来ないことが教えられています(ヨブ1章など)。マタイの10章では、神を恐れる者、神の愛顧に入れられた弟子たちにとっては、神のご主権は完全な守りの保証となりました。神のご主権のもとにひれ伏し、従うとき、神のご主権は絶対的な守りと、それに伴う平安の基盤となるのです。
主権者であられる神のご計画は何ものにも妨げられないということは、神の救いの成就においてもそうでした。この天上、地上の何ものも神の救いのご計画を妨げることはできませんでした。様々な人間の計画が立てられましたが、そのことは帰ってキリストの十字架刑を実現させ、また復活を妨げることも出来ませんでした。そして、イエス・キリストを信じた者の救いの完成のためにも、神はそのご主権を用いて、成し遂げてくださるのです。
また、神はゲヘナに投げ込む権威を持っておられると言われるように、最終的に裁く権威を持っておられます。裁きの最終権限を持っておられるからこそ、赦す権限ももっておられます。イエス様が中風の人に対して「あなたの罪は赦された」と言われたとき、律法学者たちは心の中で「神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう」と言いました(マルコ2:7等)。それは、神が裁きの主権者であられると同時に、すべての被造物に対する創造者、所有者、主権者であられるからでもあります。つまり、私たちが犯す罪は、誰に対するものでも、自分に対するものでも、究極的には、その主権者であられる神に対して犯しているのです。ですから、借金を免除できるのは、その債権者だけであるように、主権者であられる神だけが、私たちを真に赦すことがおできになるのです。

5、権威ある神の言葉

 主権者であられる神のことばである聖書は、その主権性を反映した権威あるお言葉です。神のご主権は、過去、未来、見えるもの、見えないものすべての被造物の上にあることを見ました。ですから、聖書も時、空間を超えて、権威を持っています。ネブカデネザルにも有効であった神のことばは、この日本においても、私たちの行く職場、学校、町内、故郷など、あらゆる場所において、権威を持っています。それを知るとき、私たちは、どこにおいても御言葉を信じ、御言葉に従うときに、その結果を神におゆだねすることができます。そこにおいても、御言葉に真実な、善なる神が、主権をもって働かれます。ですから、私たちは御言葉に信じ、従うときに、常に最善の結果を期待することが出来ます。それが、自分にとって最善に見えるかどうかはわかりません。ただ、わかるのは、神のお許しなしには、雀の一羽も地に落ちないということです。
 これは、聖定という問題とも関わってきます。神の聖定とは、第二ロンドン信仰告白によれば、「神はご自身で全き永遠からご自身の意志の最も賢く、聖い計画によって,起こり来たるすべてのことを自由にまた不変的に定められた(イザヤ46:10, エペソ1:11, ヘブル6:17, ローマ9:15, 18)。しかし、それによって神は罪の創始者とはならず、それといささかも関係を持たず(ヤコブ1:13, 15, 17, Ⅰヨハネ1:5)、また被造物の意志に侵害が加えられることもなく、第二原因の自由や偶然性が奪われることもなく、むしろ確立されるようになされ(使徒4:27-28,ヨハネ19:11)、これによってすべてのことを処理する知恵や、その聖定の遂行の権能や誠実をあらわされた(民数23:19, エペソ1:3-5)。」ことを言います。これは、聖書の教えをまとめたものですが、そうするとすべてのことが、すでに決まっているのならば、人間には何をしても責任はないのかという問題が起こってきます。神の主権的意志には、命令的意志と、聖定的意志とに分けて考えることが出来ます。命令的意志は、従う事が求められるものの、破られることが多いものです。聖定的意志とは、人間が神の命令に従っても、逆らっても、神はご自分がしようと思われたことを、確実に成し遂げられることを言います。神の命令に逆らえば、人はその罪を問われます。しかし、人が逆らおうとも、神のご計画の実現には妨げにならない、そのようなご計画が聖定です。その顕著な例がキリストの十字架です。イエス様は、十字架につかれる前に「人の子は、定められたとおりに去って行きます」と言われましたが、同時に、「しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます」(ルカ22:22)とも言われました。ペテロは、ナザレのイエスは「神の定めた計画と神の予知とによって引き渡された」と語りますが、同時にそれは,あなたがたが「不法な者の手によって十字架につけて殺した」(使徒2:23)のだと言って人々の罪を責めます。キリストの十字架は、「あなたの御手とみこころによって、あらかじめお定めになったこと」が行われましたが、「ヘロデとポンテオ・ピラトは…あなたの聖なるしもべイエスに逆らって…行なった」のでした(同4:27,28)。(新キリスト教辞典より)
 また、アーサー・ピンクは、人間の責任も、神のご主権に基づいて与えられていると言っています。エデンの園で、管理を任された園も、食べて良いと言われた木の実も、食べてはいけないと言われた善悪の知識の実も、すべて神の所有であって、神のお許しがあって初めて選択する権利に預かり、付託があって初めて責任が生じ、その行動の結果も神の主権的おことばによって、すでに定められていました。
 しかし、神に罪を犯して離れてしまった人間にとって、神の命令に従うことによって、制定の成就に与って、ご栄光を現すことができなくなってしまいました。ただ、イエス・キリストの贖いにより、罪の赦しによってのみ、神は私たちの罪深き過去をも、ご栄光を現すために、すべてを働かせて、私たちにとっても益としてくださるように、この聖定をご計画してくださっています。ですから、キリストを救い主として信じる者にとっては、与えられた責任を果たすよう務めることは、まったく空しくないと断言できるのです。
神のお許しなしには、何事も起きず、その神は義なる神であり、善なる神であり、哀れみ深い真実な神であられます。ですから、それがどんな結果であっても、私たちは、神がご主権を働かせた結果として、その現実があることを受け入れることが出来ます。そして、たとえ理由はわからなくとも、無意味なものではなく、むしろ善なる神がご主権をもって最善の結果を導き出されたことを信じることが出来るのです。そうするときに、神ご自身がどんなものにも影響されずに、ご自分の義、愛、あわれみ、真実を貫かれるように、イエス・キリストを信じる私たちのうちにも、周りの影響を受けない不変の神のかたちが形づくられて行くのです(ローマ5:3~5)。

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