常におられる神

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神の本性の一つに、無限性があります。この無限性というのは、神の本性ですから、神がどのようなお方であるかという本質的な性質であります。そこで理解しなければならないのは、量的な積み重ねではないというとこです。数字では表せないということです。そして、神の無限性の中に、わかりやすい部分では、時間的な無限性と、空間的な無限性があります。前者を永遠性、後者を遍在性という言葉でも表すことが出来ます。
 無限性ということを理解するには、具体的な例を挙げたほうがわかりやすいので、まず時間についての無限性、つまり永遠性について見ていきたいと思います。永遠性についても幅が広いので、今回は時間において無限であるということを学びます。この時間における無限とは時間を超越していることであり、神のお言葉における時間の無限性、そして贖いの無限性についての学びとなります。

  • 1.時間を超越している
  •  神が時間において無限であられるとは、時間を超越した存在であることを示します。そのことが表されている御言葉の一つに黙示録1:8のお言葉があります。『神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」』
     ここには、「常にいまし」というお言葉があります。これは、再臨のことについて述べられている箇所でもありますが、神の本質的なご性質についても触れられている箇所です。ただ単に、昔も、今も生きておられ、人間の寿命を超えてずっと生きておられるというのではなく、「常に」おられると言っています。これは、時間を超越しているということです。時間の過去、現在、未来にかかわらず、とらわれずご存在されているということです。ここで、イエス・キリストご自身が「わたしはアルファであり、オメガである」と明言されています。アルファとオメガというのは、ギリシャ語アルファベットの最初の文字と、最後の文字です。日本語で言うならば「あ」であり、「ん」であるということが出来るでしょう。つまり、最初であると同時に最後でもあるということです。これが無限性です。過去であるということと、現在ということと、未来ということがすべて現在形で表現できてしまうようなご存在なのです。これは、私たちには量り知れません。だからといって、神にとって時間の経過が無意味というわけでもありません。その事を形容する方法に、尖塔の上から行列をながめていることにたとえられるそうです。高ければ高いほど、上からパレードの行列を見ますと、その開始地点と終着地点が同時に視界に入り、それでいて行列が行進している時間の経過も同時に目に入ってくるわけです。これも人間の世界のことですので、完全に言い表すことはできませんが、神はそのようなご性質を持っておられるのです。
    もう一つ、神の永遠性を現す言葉に「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。(ヘブル13:8)」もあります。これは、不変性という本性とも関わってきます。ですので、ここであまり触れるとややこしくなってしまいますが少し考えてみましょう。人間は、時間の経過に束縛されておりますので、時間によって考えも、肉体も確実に変化します。まったく同じ状態ということはありえません。しかし、神は成長したり、老化したりすることもなく常に同じ方であります。これは、神が無限であられるということを、時間の流れの中にある私たちから見たときの、一つの特徴となります。

  • 2.聖書の言葉は永遠に(つねに)現在の私たちに語る
  •  では、それが私たちとどう関わってくるのでしょう。それは、御言葉がつねに「きょう」私たちに語られることを意味しています。ヘブル書は、とくにそのことを良く表した書です。ヘブル4:7には『神は再びある日を「きょう。」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです。』と書かれています。この「御声」というのは、出エジプトの民に対して、約束の地に入れようという神の約束を指しています。葦の海を奇跡的に横断するという神の奇跡を見たにも関わらず、モーセ、ヨシュアとカレブ以外の民は、心をかたくなにしてこの神の約束を信じ切ることが出来ませんでした。そして、それから何百年も後に神はダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない」と語られたと、この箇所で言っています。この御言葉は、詩篇の95篇に書かれていますが、そこは「われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう」という御言葉から始まっています。そしてヘブル書では、イエス・キリストにおいてこの救いが成就したことを、心かたくなにしないで信じ、そこに留まるように勧めています。
    キリストが「きのうもきょうも、いつまでも、同じです」と語っているのも、このヘブル書です。ここから、聖書が時代、時間を超越して、私たちに語るものであることを知ります。それは、神が時間の無限性を持っておられるからです。ですから、神の言葉である聖書も、同じ永遠性を持っております。それは、どの時代においても神の御言葉の真実、救いは変わらないということであり、聖書に書かれている神の御業は、そのまま今私たちが信じる神の御業であり、御姿であると信じて良いのです。ただし、旧約聖書時代のような奇跡、新約聖書当時のような奇跡は、現在は止んでいることは心に留めなければなりません。神の証しは、聖書66巻において完成したので、もはや奇跡をもってそれを証明する必要はないからです。しかし、方法は変わっても、神の御力、ご性質はまったく変わりなく、御言葉の約束も変わりません。これは、聖書が私たちにとって、本来どれだけ力のあるものかを示すものです。

  • 3.永遠なるキリストの完全な贖い
  •  そして、神が永遠性を持っておられるということは、私たちの救いの永遠性をも保証します。
    ヘブル7:24,25には、「しかしキリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」とあります。ここでは、キリストが永遠なるお方であるから、その方が私たちの大祭司となることによって完全に救われているということを教えています。その完全さというのは、この場合、時間的な完全さ、つまり永遠性を指しています。さらに27節には「ただ一度でこのことをなしとげられたからです」とあります。「このこと」というのは、「罪のためのいけにえ」のことであり、キリストの十字架のことです。永遠なるキリストがご自分のいのちをいけにえとして捧げられたので、その「いけにえ」「身代わり」は、永遠に有効なのです。ですから、キリストの十字架から2,000年以上もたった今の私たちにも、この十字架の「いけにえ」は有効であり、イエス・キリストを信じる者が今も、救いに与るのです。それだけでなく、十字架以前の信仰者たちにも有効です。神の永遠性は、そのような性質を持つからです。そして、それは信じた後に、不本意ながら犯してしまう罪にさえ有効なのです。キリストの十字架はただ一度きりですが、キリストが永遠なる方であるがゆえに、その贖いと、とりなしは永遠なのです。また、私たちの救いは、いまだに罪を犯してしまうこの地上の人生において、聖化され続け、天のみ国に入るまでも、または栄光の体に変えられるまでも「完全」なのです。この事実は、神の無限性なしにはあり得ず、また神の無限性を理解することによって、より救いの完全さと恵みが理解できるのです。
     最後にヘブル7:26~28をお読みして終わります。
     「また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。律法は弱さを持つ人間を大祭司に立てますが、律法のあとから来た誓いのみことばは、永遠に全うされた御子を立てるのです。」

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