福音に挑戦するもの

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福音に挑戦するもの









 私は、キリスト教界にある最近の風潮に危惧を覚えるのです。教会が、聖書の原理こそが、人間社会における正しいあり方であるとの考えのもと、教会が社会の一員である事を願い、強調する傾向が出てきているように思われる事です。クリスチャンは、世俗的なものと聖なるものとを区別しますが、決して分離して自分とは全く無関係とはしません。もし私たちが、信仰生活と世俗を分離して、無関係とするならば、キリストがこの世に来られ、問い掛けられた事を意味無しとしてしまう事になります。今まで、魂の救いだけが大切(勿論、私はその意見に賛同しています)で、世のことは、いつも二次的なこと、クリスチャンには、一切関係ないとしてきたように思います。



 しかし私は、近年今までの反動として(ある意味でそれは、喜ばしい事なのですが)、現実社会の評価をあまりにも気にするあまり、世俗的なものと聖なるものとを区別することにおいて、曖昧になって来ているように思えるのです。今と言う現実生活のあり方の必要性を強調し、永遠なものを(拒否しないまでも)軽く受け留める危険性が、出てきていないだろうか。勿論、私たちは、永遠を強調するあまり、今を否定してしまう過ちを繰り返さないように慎まなければなりません。私たちクリスチャンは、いつも現実生活(世俗的で一時的なもの)と永遠なる神の救いと報い(永遠的なもの)を共に見る事が大切です。そしてこの永遠的なものが、十分強調された時、神の御前における裁きも、救いも、日常生活において重大な関心事となって来るのです。



 最近、クリスチャン生活の中で、神の事をあまり意識しないで、過ごす事が多くなっていないでしょうか。それは、永遠のいのちと神の報い(お題目のように唱えます)が、真剣に考えられなくなっているのです。私たちは、神の言葉を実行する事よりも現実生活(社会的評価)を優先し、神の言葉が重大な意味を持たなくしているのです。



 ですから私たちは、ルカ六章三七節〜四二節をどれほど重大視しているでしょうか。ここには、



1、さばいてはいけません。

2、人を罪に定めてはいけません。

3、赦しなさい。

4、与えなさい。

と言う四つの主の命令があります。



これも今までの勧めと同じく、四つのシリーズですから、四番目の「与えなさい。」がクライマックスです。この命令の理由は、「あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらう」からです。誰によって量り返してもらうかというならば、神によってです。つまり、私が他の人に対する量りと、神が私に対する量りとが、比例関係にあると言うのです。私たちは、人に対して冷たく、厳しく、取り扱いながら、人からよくしてもらうという事はないのと同じ原理が、神の取り扱われる原理だというのです。



 そこで、ここの主旨は、他人に対する量り方より、自分が「さば」き、と「罪に定め」る立場から「赦され」ねばならないという、自分の立場をよくわきまえることを言っております。他人を裁く立場どころかむしろ、自分こそ赦しが(自分にとって)、必要である、という事を指摘するのです。神のみを裁き主として、自他共に神から「裁かれず」「罪に定められない」で、「赦され」「与えられ」る必要があることを認めることこそ、肝要なのです。



そんな自分の立場もわきまえないで、人を批判する批判者の影響についてのたとえが「盲人の手引き」、「弟子と師」「塵と梁」です。ですから私たちは、自覚的な自己批判の努力が必要なのです(ガラテヤ六章一・四節)が、それをしているでしょうか。それは、永遠なる神、全知、全能なる神を一番重要視し、意識していなければ、およそできない事なのです。

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