試練と賞讃

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試練と賞讃









 信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。(Ⅰペテロの手紙一章七節)



 私たちは、苦しみや試練をいつも嫌なもの、何の価値もなく意味もない事と思っていないでしょうか。ペテロは、信仰の試練の厳しさを、少しでも割引して考えたりする人ではありませんが「このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。」(1ペテロ四章一)とその価値を語ります。そのペテロが、試練に対するキリスト者の究極の勝利を宣言した言葉が冒頭の聖句です。また私たちの受ける苦難が、信仰の試練と呼ばれるのは、私たちが極度に圧迫されて、もはや自分自身の力で生きる望みを全く失い、死人を甦らせる神を信じる信仰によってのみ生きるか、それとも死の恐怖の虜となって、信仰を放棄してしまうかのぎりぎりの線まで、追い詰められるからです。生きる望みが少しでも自分の手の中にまだあると思える間は、その試練はまだ本格的なものとはいえないと言えるのではないでしょうか。



 私たちが、生きる望みを全く失い、心の中で死を覚悟しながらも死人を甦らせる神を信じるとすれば、この私たちの信仰を打ち破ることの出来る力は、もはや何一つありません。何故なら、死に優る苦痛はないし、死に優る恐怖もないからです。ですから死に直面しながら、尚それを乗り越えて、生き続けるものこそ、ペテロの言うとおり、「火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊い」ものに違いありません

。キリストは、この死に対して完全な勝利をされた方なのです。これが、永遠のいのちの主です。



 こうして試練によって練られる度に、勝利に導かれた信仰は、私たちがこの世において、未信者が決して手にすることのできない、また目で見ることの出来ない素晴らしい信仰の財産です。火で精錬された金よりも尊い財産なのです。



 しかし、信仰の勝利が完全に明らかにされるのは、イエス・キリストの再び来られる時です。その時私たちキリスト者は、その信仰の讃美をほかならぬキリストから、直に受ける事になります。私たちは、神がキリストに与えた栄光をキリストから与えられるのです。これが、苦難に続く栄光の素晴らしさです。



 更にキリスト者の光栄とは、私たちのために苦しみを受けた、キリストの御足の後を踏み従う事にほかなりません。私たちの全人格、全生涯をかけて、キリストの苦難をまねる(倣う)ことではないでしょうか。しかしこれは、やがて彼の苦難と共に、苦難に続く栄光にも預かる事です。あなたは、キリストの苦難の足跡に従うことを厭うのでしょうか。このような苦難な道を避け続けて、何かもっと安易は道を選ぼうとするのですか。それは、実現不可能な望みだと断言するしかありません。何故ならあなたは、キリストの苦難を避けることができても、それによって苦難そのものを避ける事はできないからです。それどころか、あなたは、キリストの苦難を避けたつもりでも、実はこれよりも更に困難な、逃げ場の無い、欲情の泥沼に落ち込むよりほかに無いことを知らなければなりません。



 しかし私たちが、持ち前の弱さ、愚かさ、罪深さの為に、或は私たちの受ける余りの激しさ、辛さの為に、時にキリストを忘れ、時には離れる事があろうとも、キリストはいつも、いつまでも一緒にいて下さる(インマヌエルなる主)なのです。



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