メシヤをお迎えする備え

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メシヤをお迎えする備え(マタイ3章7~12節)
 バプテスマのヨハネ(ヨルダン川で悔い改めのバプテスマを授けていた)がユダヤの荒野で活動を開始したのは「皇帝テベリオの治世の第十五年」(ルカ3章1)です。ここでヨハネは主の伝統的な預言者と同じく〈悔い改め〉(2節)を説いていました。その悔い改めのメッセージを説いていた理由は〈天の御国〉が到来しようとしていたからです。マタイの福音書において多く見られる〈天の御国〉という表現は「神の国」と同じ意味です。〈天の国=「神の国」〉は、神の「主権、支配」のことです。このような神の国の到来を、ローマからの解放と神の民による支配の実現と理解しているユダヤ人にとっては、神を知らない異邦人こそが悔い改めるべきで、自分たちはアブラハムの子孫であり、神の律法をもっている神の選民だから悔い改める必要がないと思っていました。ヨハネはそのユダヤ人に対し、悔い改めるよう求めたのです。約七百年前イザヤが預言(イザヤ40章3)して語った〈主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ〉と〈荒野で叫ぶ者の声〉(3節)とは、実にこのヨハネのことだったのです。
 また天の御国の到来は、主の到来でもあり、その〈主〉はイエスのことです。一方、バプテスマのヨハネの服装は、旧約の預言者エリヤを想起させ(Ⅱ列王記1章8)るものでした。彼は、「ラクダの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた」(マルコ1章6)と福音書は証言しております。そのヨハネは神の道を備え、救い主を直接、世に紹介した預言者中の預言者です。イエスが神の約束されたメシヤであることを証しすることほど大きな働きはないのです。私たちキリスト者はその存在自身がキリスト・イエスの救いを証ししているはずです。
 ヨハネのメッセージを通してユダヤやヨルダン川流域の人々が大勢罪を告白し、バプテスマを受けました。彼の授けるバプテスマは、レビ記11章~15章の規定とは異なっています。彼のバプテスマは、一回的なものでした。また彼は、ユダヤ人に要求しております。ですから彼のバプテスマは、ユダヤ教への改宗者に授けるバプテスマと異なっています。
 ヨハネの授けるバプテスマ志願者の中に〈パリサイ人やサドカイ人〉(マタイ3章7)がいました。〈パリサイ人〉は律法を生活に適用するため、ハラカーと呼ばれる口伝の律法を生み出し、それを守らない者から自らを分離するところから「パリサイ派(分離派)」という名称の起源が出てきたと言われています。彼らは、エルサレムの最高宗教議会(サンヘドリン)では少数派でしたが、民衆の間では大きな影響力がありました。一方〈サドカイ人〉は、エルサレムの神殿に基盤を持つ裕福な祭司階級で、議会では多数派でした。指導者である彼らに共通している罪は、まむしの毒のように危険なものでした。ヨハネは彼らに悔い改めにふさわしい〈実〉(マタイ3章8)を求めました。最後の審判には、先祖アブラハムの徳に頼ることが出来るとする彼らの特権意識(血筋)を全く否定したのです。このヨハネをメシヤ(キリスト)と考える人々もいましたが、彼は自分はあくまでも先駆者で、自分がしもべとして仕える価値もないほど偉大な方が後に来ると証言しました。その人は、人々の悔い改めのための〈水のバプテスマ〉よりもっと力のある〈聖霊と火とのバプテスマ〉を授ける(マタイ3章11)ことができるのです。ヨエル2章28~30節の預言のように人々に聖霊を注ぎ、生活をきよめ、新しい力で満たすことのできる方です。この来るべきメシヤは実の有無に従い厳しいさばきを行う、とヨハネは告白し、神の真実を明らかにしました。

 そして今年は、11月27日から主の来臨を待ちわびる霊的、日常的準備の期間を「アドベント」と呼びます。この「アドベント」という言葉の直接の意味は「来臨」、「接近」、「出現」などです。主イエスが人となってこの世に来られた受肉来臨されることを指します。またこの言葉は、終末があることとキリストの再臨において行われる完全なる裁きを待ちわび、霊肉共に準備する意味にも用います。時期は十二月二五日の四週間前の日曜日から二四日間での期間をアドベント(待降節)と呼びます。この頃からクリスマスに向けて本格的に準備を始めます。そしてこの「アドベント」期間にクリスチャンの各家庭では、アドベント・カレンダーなどを作ったり、購入したりして「カウントダウン」を楽しむ人たちもおります。
 また今朝礼拝において主の晩餐を行います。キリスト教会のカレンダーでは、この日からを一年の始まりとする習慣があります。今朝の主の晩さんは、特にこの待降節を覚えて行います。この主の晩さんには、イエス・キリストが私たちの救いのために十字架について贖いとなられたことを覚え、記念する(Ⅰコリント11章23~26節)という(贖罪的)意味がありますが、それだけではありません。次のような意味と目的があるのです。
 (2)主の晩さんの聖化論的理解  Iコリント10章16節には、二度「あずかること](コイノーニア)という語が用いられています。この箇所でパウロは、コリント教会に起こった、偶像問題を指導している中で「祝福の杯」と「裂かれたパン」にあずかることは、「キリストの血」と「キリストのからだ]にあずかることだと述べています。キリストと主の晩さんにあずかる者とに奥義的、霊的一体性があることを示唆しています。さらに、共にパンを裂くことは、主の晩さんに預かる教会員相互の結合をもたらすものでもあります。つまり主の晩さんに預かるということは、神と人との個人的であり人格的信仰的交わりの回復とともに、人間相互のキリストの体としての教会的交わりを自覚します。
(3)主の晩さんの再創造論的理解  主の晩さんの再創造論的理解とは、イエス・キリストが神であられるのに人となられた(受肉)という驚くべき神の謙遜を基盤にして、神の救いのご計画を全披造物にまで広げル、と言う理解を指します。つまり、肉体をもたれたイエスが十字架で死なれ、肉体を持って復活されたことによって、私たちの肉体を持っての復活に希望が与えられることを言います(コロサイ1章27節、ローマ8章17節)。クリスチャンたちの肉体を持っての復活をまた永遠のいのちを得るということでもあります。そしてこのキリストの復活と再臨は、人間だけではなく、すべての被造物の希望でもあるということなのです。主の晩さんはこの望みを与えるという意味があり、目的なのです。
(4)主の晩さんの終末論的理解   マルコとマタイは、杯について言及された後に、「わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」と言われたことを記して、終末における「神の国」の到来の切迫性を伝えます。やがて確実に訪れる終末における主の晩さんが、キリスト者との交わりとしての祝宴であることを示唆します。Iコリント11章26節では、「主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」とありますので、これは終末論的であると同時に、宣教的意味がこの主の晩さんにはあることが理解できます。

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