御霊の実について 2

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御霊の実について 2







 パウロは、御霊の実として九つ上げます。これらは、人との交わりにおいて現されるものです。つまり(自分にとって都合の)良い人には現されるが、嫌いな人には現せなくなるというようなものでもなく、また一つでも現せればよい方だという事もないのです。確かにこの[実]が[御霊の]ものでないならば、私たちのうちには決して実現する事はないでしょう。



 またパウロは、「御霊の実」といわれているところの「実]という言葉には単数形を使います。この言葉を単数形で使っているには訳があります。パウロは、九つの[御霊の実]という神から与えられるクリスチャンの資質を一つのまとまったものと考えているのです。パウロは、クリスチャンは誰でも、これらの「御霊の実]のすべてを持つべきだと言っているのです。つまりあるクリスチャンには[御霊の実]である[愛]はあるが、[喜び]がないとか、他の人には[喜び]はあるが、[平安]が無い、と言うようなものではないと言うのです。更に、自分にとって比較的自分の身に付けやすいと思われるものを、一つでも持っていればそれでよいと言うものでもないのです。すべてのクリスチャンは、これらすべての[御霊の実]の性質を現すべきなのです。神の力そのものがクリスチャンに働かれるので、生まれながらの人間には、結ぶことのできない[御霊の実]を結ぶ事ができるのです。但し、肉に従わないで御霊に導かれて歩もうと決意しなければなりません。



 そこで、御霊が結ばせてくださる実がどれほど素晴らしいものであるか、聖書より教えられ、それらを慕い求める心が与えられる事を願うのです。



 「御霊の実」としてまず最初に掲げられているのが[愛]です。パウロは、[御霊の愛によって](ロマ一五章三〇)、[愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら](ピリピ二章一)、[御霊によるあなたがたの愛](コロサイ一章八)と語って、クリスチャンの交わりと祈りには、御霊と愛が深く結びついている事を教えます。御霊によって注がれる神の愛なしには、クリスチャンの交わりはないと言います。



 キリスト教の愛についての教えは、他に比べる事もまた似たものもありません。何故ならその愛は、愛される者に愛される資格があるかどうかに、全く関係なく注がれる愛だからです。神の御子イエスは、罪人である私たち人間のために、十字架上に罪の全く無いご自身を、身代わりとして差し出された方です(ロマ五・五)。つまりイエスは、何のとりえもなく、かえって神に反逆している者の為に死なれたのです。そのような状態の私たちの現実の中に「私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛とが現われた」のです。それによって私たち罪人に、愛が分かったのです(Ⅰヨハネ四章八〜十一)。このことから、神ご自身の中に一方的に愛する(条件付きでない)愛をもっておられることがわかります。ですから、私たちがこの[御霊の実]である[愛]を身につけるとは、神にすべての判断(私の価値観や気持ち)を明渡して、みことばの教えられている事に従う事です。そうすれば、私たちは神の愛の力によって造りかえられるのです。そうして、条件付きでない愛を持って他の人々にキリストの弟子である事を証ししようではありませんか。これは、自分の中に何らかの可能性が少しでもあるからできる、と言うものではありません。一方的な聖霊なる神の御業なのです。

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