神の本性と信仰生活
神の聖定
神の主権性,神の本性と信仰生活¦コメントは受け付けていません。
神は、万物を創造し、保持し、治めておられるゆえに、すべての存在に対してご自分の思うことをなされる権利を持つお方であることを学びました。これは、神が所有される存在への自明の権利であります。もう一つ、聖定という言葉があります。神がご計画をされたことを確実になしとげられる、そのご計画のことを聖定と言います。第二ロンドン信仰告白によれば、「神はご自身で全き永遠からご自身の意志の最も賢く、聖い計画によって,起こり来たるすべてのことを自由にまた不変的に定められた(イザヤ46:10、 エペソ1:11、 ヘブル6:17、 ローマ9:15, 18)。しかし、それによって神は罪の創始者とはならず、それといささかも関係を持たず(ヤコブ1:13, 15, 17、Ⅰヨハネ1:5)、また被造物の意志に侵害が加えられることもなく、第二原因の自由や偶然性が奪われることもなく、むしろ確立されるようになされ(使徒4:27-28、ヨハネ19:11)、これによってすべてのことを処理する知恵や、その聖定の遂行の権能や誠実をあらわされた(民数23:19、 エペソ1:3-5)」のです。
聖定は、神に決定権があり、神から発するということにおいて、神の主権性と関連しています。この聖定について、少し学びます。
聖定の教理の引用聖句について
この聖定という教理が、どのような御言葉に基づいているかを見ることによって、聖定が私たちにどのような意味を持つのか見ていきます。今回は、第二ロンドン信仰告白の証明聖句を見ていきます。まず、イザヤ46:10には次のように書かれています。「わたしは、終わりの事を初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げ、『わたしのはかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる。』と言う」。この言葉は、イザヤ40章から始まる、イスラエルの回復と救いに関する預言の一部であり、人が造った偶像と永遠なる神との対比で語られています。イザヤ39章ではバビロン捕囚について語られており、40章からは第一義的には、そこからの帰還について書かれています。それは44~45章で、イスラエルに帰還命令を出すペルシャ王クロスの名前と、神殿再建について書かれていることでわかります。そして、この46章も13節において「わたしは、わたしの勝利を近づける。それは遠くはない。わたしの救いは遅れることがない。わたしはシオンに救いを与え、イスラエルにわたしの光栄を与える」と言って、イスラエルの救いに言及しています。つまり、この神の「はかりごと」というのは、第一義的には、バビロン捕囚からの帰還を指します。9節では、「遠い大昔のことを思い出せ。わたしが神であるほかにはいない」と言い、10節で「終わりの事を初めから告げ…」と言われています。これは、アブラハムに対する子孫の約束、出エジプト、カナン入国などの出来事すべてをさしていると言われます。これらはみな、新約聖書では神によってなされる救いの型を示す出来事であり、40章からの預言もイエス・キリストによる救いの預言として多く引用されている箇所です。これらのことから、46:10の「はかりごと」の中心は、救いのご計画にあることが言えます。
次にエペソ1:11です。「私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです」。これは、1:4,5にも同じようなことが書かれていて「私たちを世界の基のおかれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のないものにしようとされました」と言われていて、明らかにキリストによる救いについて言っています。そして、その理由は「それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです」と言われています。11節も「ご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです」とあって、「目的に従って」と言われています。その目的は12節で「それは、前からキリストに望みをおいていた私たちが、神の栄光をほめたたえる者となるためです」と言われています。ここで、「私たち」というのは異邦人であって、パウロたちユダヤ人クリスチャンの宣教によって救われた人々に対して、言われている言葉であって、ユダヤ人クリスチャンあるいは使徒と考えられます。それは、13節で「またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました」と言われていることによって明らかです。2:11でも「あなたがたは、以前は肉において異邦人でした」と言われています。そして、このユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンがキリストにあって一つとされたことが、2章に書かれ、1:10でも「みこころの実行」が「キリストにあって一つに集められる」ことであると言っています。このことから、この箇所で言われている神のご計画の実現というのは、キリストによる救いに関することと、それ以上に救いに関するユダヤ人クリスチャンの選びと、異邦人クリスチャンの救いの順序、秩序、また和解によって神の恵みが豊かに褒め讃えられることであることがわかります。使徒10:41でも、十字架の復活の証人は、「神によって前もって選ばれた証人である私たち」と言って、使徒ペテロたちについて言っています。
実は、もう一つの証明聖句であるローマ9:15,16もこのユダヤ人の救いと、宣教と、異邦人の救いの関係において言われています。
神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。 ローマ9:15,16
これは、救いというものが人間に救いを受けられる原因があるのではなく、一方的な神のあわれみによることを主張している箇所です。あらかじめ選ばれたイスラエル人がかたくなにされたことによって、あわれみによって異邦人に救いが及んだことが述べられており、それはまた、イスラエル人もあわれみによって救われる為だと11:28~32で述べられています。そして、このことについて「なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ローマ11:34~36)と言われています。実は、この聖句も、よく聖定の証明聖句として引用される箇所です。
これらのことから見ますと、聖書が聖定のことを述べているのは、すべて救いに関してであり、その救いは神の主権的、一方的なみこころ、あわれみによるのだということ、それを示し、またその愛とあわれみの栄光がユダヤ人にも異邦人にもほめたたえられて、神に栄光が帰されるために、この聖定が定められ、聖書に教えられていることが解ります。
まとめ
ですから、聖定というのは、葉っぱが落ちたとか、髪の毛が何本あるとか、そのような些細なことすべてについて神が決定しておられるということを意味しているのではなく、神の救いのご計画に関して、その目的が時間にも、人間の意志にも、自然環境にも、その他あらゆるものに妨げられることなく、確実に実行されることを言っています。そして、それは、神の主権的な決定によるのであって、人間が誇れるものは何もないことを教えると同時に、救いは、私たちの罪や弱さや失敗などにおいて、あるいは国家や様々な周囲の環境によって妨げられることなく、実現、成就することを教えており、それはイエス・キリストの十字架がそのように成就したことにおいて、明らかに示されています。そのようにして救われた者たちに「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」 (ローマ8:28)と書かれており、それは、「知っています」と言われているように、8:29で私たちの救いが神のご計画によって、神の一方的な恵みによって救われたのだから、罪人である私たちをそのように救いに招かれたことを根拠に、知ることができるということが言われています。そして、このローマ8:28は、罪との戦いに苦しむ、苦しみについての、希望、励ましとの関連で言われているのです。
主権者なる神
神の主権性,神の本性と信仰生活¦コメントは受け付けていません。
1、神の主権性とは
聖書の言う主権性とは、ひとことで表すならば、自由に裁量を下す権威、自由裁量権ということができます。あらゆることがらについて、ご自分ひとりで決めることが出来、命令し、命令したとおりに行わせることができるものです。そこには、何の条件もなく、どのような環境にも被造物(人、物質、御使いなどの霊)にも左右されず、ご自分の決められたことを、決めたとおりに遂行することが出来、何ものもそれに対して抗議する権利もなく、妨げることもできません。それを主権と呼びます。
聖書は、神の主権を次のように述べています。「私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行なわれる」(詩115:3)。「地に住むものはみな、無きものとみなされる。彼は、天の軍勢も、地に住むものも、みこころのままにあしらう。御手を差し押えて、「あなたは何をされるのか。」と言う者もいない」(ダニ4:35)。「…王国もあなたのものです。あなたはすべてのものの上に、かしらとしてあがむべき方です」(Ⅰ歴29:11)。「見よ、すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの」(エゼ18:4)。「みこころによりご計画のままをみな実現される」(エペ1:11)。「というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです」(ロマ11:36)。
以上の御言葉は、次の三点に要約できます。(1)神の主権性は、全世界を包括する。ご自分の造られた最も高い者から最も低い者に至るまで含んでいる。(2)その権威は絶対的である。神は権威を持つことについて何の制限もない。神は天の軍勢と地に住む者たちの中にあってご自分の喜ぶことを行なわれる。(3)その主権は不変である。無視されることも、拒まれることもあり得ない。その主権はすべての被造物を手中に収め、霊的世界および物質世界を完全に支配しておられる。
この主権性は、神の卓越した完全性から生じる権利でありますが、同時に神のみが持つことが出来るものであるという点で、神の本質的なご性質と言うことができます。第一に、神は創造者であり、保持者であられるからこそ、ご自分が創造したものに対して、あらゆる権威を主張することのできる唯一のお方です。聖書は創造主と被造物の関係を陶器師と陶器の関係になぞらえています。『ああ。陶器が陶器を作る者に抗議するように自分を造った者に抗議する者。粘土は、形造る者に、「何を作るのか。」とか、「あなたの作った物には、手がついていない。」などと言うであろうか』(エゼ18:4)。陶器師は、様々な形の陶器を作る自由があります。そして、実際に陶器師が作ったゆえに、その陶器は存在するのです。その陶器が陶器師に対して、なぜこのように造ったのかということは言えません。そして、創造者は被造物の所有者であり、ご自分が所有されるものに対して正統な権利を主張することのできるご存在です。イエス・キリストは、ぶどう園の主人の譬え話をされたとき、主人が、労働者の働き以上の報酬を与えたことについて、「自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか」(マタイ20:15)と語られました。
それだけでなく、完全であられる神は、すべてにおける正統な権威をご自分の内にもっておられます。義である神は、裁く権威を内在しておられます。全知・全能なる神は、語られる言葉をすべて、誤りなく実現させる信頼性の内に権威を内在しておられます。そして、永遠不変なる神は、その権威において揺るぐことがありません。聖なる神は、その崇高さにおいても権威を持っておられます。
2、神の主権はあらゆる権威の源
権威というものは、誰かに与えられて初めて認められるものです。民主主義であるならば、国民主権であって、国民が選挙によって選ぶことによって、その人に権威が認められます。そのため、(実際に、国民の主権がどれだけ機能するかは別として)民主主義における政治家は、よしにつけ、悪しにつけ、国民の顔色を伺うことになります。選挙によらない場合は、武力、血筋に根拠を求めたり、古代エジプトなどでは、王名に神々の名を含めることによって権威を求めたりしました。しかし、聖書の神は、誰にも権威の根拠を求めることもなく、誰の許可も必要としません。全能にして、永遠、不変の創造者なる神は、自然条件、時、場所などにも左右されず、自由に決断し、決断したことを行われ、命じられます。そして、この世のあらゆる権威もすべて神が与えられたものであると、聖書は教えます。聖書の神は、歴史的世界帝国の古代バビロニアの皇帝ネブカデネザルに対しても、その主権、支配権は、神が与えられたものだと宣言されました(ダニエル4:24~25)。そして、神の裁きにより理性を失ったネブカデネザルは、理性を取り戻したとき「その期間が終わったとき、私、ネブカデネザルは目を上げて天を見た。すると私に理性が戻って来た。それで、私はいと高き方をほめたたえ、永遠に生きる方を賛美し、ほめたたえた。その主権は永遠の主権。その国は代々限りなく続く。地に住むものはみな、無きものとみなされる。彼は、天の軍勢も、地に住むものも、みこころのままにあしらう。御手を差し押えて、「あなたは何をされるのか。」と言う者もいない。私が理性を取り戻したとき、私の王国の光栄のために、私の威光も輝きも私に戻って来た。私の顧問も貴人たちも私を迎えたので、私は王位を確立し、以前にもまして大いなる者となった。」(ダニエル4:34~36)と言って、自分の権威が神から与えられたことを認めました。新約聖書でも、イエス・キリストを十字架につける判決を下す立場にあった総督ピラトに対して、イエス様は、その権威は神から与えられなければないものであることを語られました。「そこで、ピラトはイエスに言った。「あなたは私に話さないのですか。私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか。」イエスは答えられた。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きい罪があるのです。」」(ヨハネ19:10~11)。 また、パウロも「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです」(ローマ13:1)と言っています。
3、主なる神
新約聖書では「主権」という言葉は、「キュリオテース」という言葉を使います。これは、「主(キュリオス)」が持っている本質を表す言葉です。日本語でも「主権」は、「主」と「権」からなっています。主権とは、主が本来持っている権威です。
聖書は、旧約でも新約でも全体を通して、常に神を主と呼びます。旧約聖書の主という言葉は、しもべが主人を呼ぶとき(創世記24章)、妻が夫を呼ぶとき(創世記18:12)、あるいはエジプトの君主(創世記40:1)に対しての呼称として使われています。相手が自分に対して所有権、支配権を持っていることを表明するときに、主と呼んでいます。そして、聖書の神が、ご自分がエジプトから救い出されたイスラエルの民と契約を結ぶとき、モーセは次のように語りました。「あなたがたの神、主は、神の神、主の主、偉大で、力あり、恐ろしい神。かたよって愛することなく、わいろを取らず、みなしごや、やもめのためにさばきを行ない、在留異国人を愛してこれに食物と着物を与えられる。」(申命記10:17~18)。これは、神というお方は、この地上で主と呼ばれる存在(神と呼ばれる存在も人も含め)のすべてに対して、所有権、支配権を持ったお方だという主張です。その根拠として、同10:14では、「見よ。天ともろもろの天の天、地とそこにあるすべてのものは、あなたの神、主のものである」と語り、聖書の神が天上、地上を含め、すべての被造物に対して、所有権を持っておられるからだと言っています。だから、「イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守ることである」(同10:12~13)と言われています。神が主権者であられるからこそ、そのお言葉に従うときに、幸福が保証されるのだという宣言です。
4、どのような出来事も神の許可なしには起こり得ない
ダニエル4:35で見たように、誰も神がなそうとされることをとどめることはできません。それだけでなく、聖書は神のお許しなしには、何事も起こり得えないことを教えています。イエス・キリストは、「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません」(マタイ10:29)と教えられました。その前には、人を死んだ後に、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる事も教えられています。そして、その結論は「だから恐れることはありません」(10:31)です。聖書では、サタンでさえも神のお許しなしには何事も出来ないことが教えられています(ヨブ1章など)。マタイの10章では、神を恐れる者、神の愛顧に入れられた弟子たちにとっては、神のご主権は完全な守りの保証となりました。神のご主権のもとにひれ伏し、従うとき、神のご主権は絶対的な守りと、それに伴う平安の基盤となるのです。
主権者であられる神のご計画は何ものにも妨げられないということは、神の救いの成就においてもそうでした。この天上、地上の何ものも神の救いのご計画を妨げることはできませんでした。様々な人間の計画が立てられましたが、そのことは帰ってキリストの十字架刑を実現させ、また復活を妨げることも出来ませんでした。そして、イエス・キリストを信じた者の救いの完成のためにも、神はそのご主権を用いて、成し遂げてくださるのです。
また、神はゲヘナに投げ込む権威を持っておられると言われるように、最終的に裁く権威を持っておられます。裁きの最終権限を持っておられるからこそ、赦す権限ももっておられます。イエス様が中風の人に対して「あなたの罪は赦された」と言われたとき、律法学者たちは心の中で「神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう」と言いました(マルコ2:7等)。それは、神が裁きの主権者であられると同時に、すべての被造物に対する創造者、所有者、主権者であられるからでもあります。つまり、私たちが犯す罪は、誰に対するものでも、自分に対するものでも、究極的には、その主権者であられる神に対して犯しているのです。ですから、借金を免除できるのは、その債権者だけであるように、主権者であられる神だけが、私たちを真に赦すことがおできになるのです。
5、権威ある神の言葉
主権者であられる神のことばである聖書は、その主権性を反映した権威あるお言葉です。神のご主権は、過去、未来、見えるもの、見えないものすべての被造物の上にあることを見ました。ですから、聖書も時、空間を超えて、権威を持っています。ネブカデネザルにも有効であった神のことばは、この日本においても、私たちの行く職場、学校、町内、故郷など、あらゆる場所において、権威を持っています。それを知るとき、私たちは、どこにおいても御言葉を信じ、御言葉に従うときに、その結果を神におゆだねすることができます。そこにおいても、御言葉に真実な、善なる神が、主権をもって働かれます。ですから、私たちは御言葉に信じ、従うときに、常に最善の結果を期待することが出来ます。それが、自分にとって最善に見えるかどうかはわかりません。ただ、わかるのは、神のお許しなしには、雀の一羽も地に落ちないということです。
これは、聖定という問題とも関わってきます。神の聖定とは、第二ロンドン信仰告白によれば、「神はご自身で全き永遠からご自身の意志の最も賢く、聖い計画によって,起こり来たるすべてのことを自由にまた不変的に定められた(イザヤ46:10, エペソ1:11, ヘブル6:17, ローマ9:15, 18)。しかし、それによって神は罪の創始者とはならず、それといささかも関係を持たず(ヤコブ1:13, 15, 17, Ⅰヨハネ1:5)、また被造物の意志に侵害が加えられることもなく、第二原因の自由や偶然性が奪われることもなく、むしろ確立されるようになされ(使徒4:27-28,ヨハネ19:11)、これによってすべてのことを処理する知恵や、その聖定の遂行の権能や誠実をあらわされた(民数23:19, エペソ1:3-5)。」ことを言います。これは、聖書の教えをまとめたものですが、そうするとすべてのことが、すでに決まっているのならば、人間には何をしても責任はないのかという問題が起こってきます。神の主権的意志には、命令的意志と、聖定的意志とに分けて考えることが出来ます。命令的意志は、従う事が求められるものの、破られることが多いものです。聖定的意志とは、人間が神の命令に従っても、逆らっても、神はご自分がしようと思われたことを、確実に成し遂げられることを言います。神の命令に逆らえば、人はその罪を問われます。しかし、人が逆らおうとも、神のご計画の実現には妨げにならない、そのようなご計画が聖定です。その顕著な例がキリストの十字架です。イエス様は、十字架につかれる前に「人の子は、定められたとおりに去って行きます」と言われましたが、同時に、「しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます」(ルカ22:22)とも言われました。ペテロは、ナザレのイエスは「神の定めた計画と神の予知とによって引き渡された」と語りますが、同時にそれは,あなたがたが「不法な者の手によって十字架につけて殺した」(使徒2:23)のだと言って人々の罪を責めます。キリストの十字架は、「あなたの御手とみこころによって、あらかじめお定めになったこと」が行われましたが、「ヘロデとポンテオ・ピラトは…あなたの聖なるしもべイエスに逆らって…行なった」のでした(同4:27,28)。(新キリスト教辞典より)
また、アーサー・ピンクは、人間の責任も、神のご主権に基づいて与えられていると言っています。エデンの園で、管理を任された園も、食べて良いと言われた木の実も、食べてはいけないと言われた善悪の知識の実も、すべて神の所有であって、神のお許しがあって初めて選択する権利に預かり、付託があって初めて責任が生じ、その行動の結果も神の主権的おことばによって、すでに定められていました。
しかし、神に罪を犯して離れてしまった人間にとって、神の命令に従うことによって、制定の成就に与って、ご栄光を現すことができなくなってしまいました。ただ、イエス・キリストの贖いにより、罪の赦しによってのみ、神は私たちの罪深き過去をも、ご栄光を現すために、すべてを働かせて、私たちにとっても益としてくださるように、この聖定をご計画してくださっています。ですから、キリストを救い主として信じる者にとっては、与えられた責任を果たすよう務めることは、まったく空しくないと断言できるのです。
神のお許しなしには、何事も起きず、その神は義なる神であり、善なる神であり、哀れみ深い真実な神であられます。ですから、それがどんな結果であっても、私たちは、神がご主権を働かせた結果として、その現実があることを受け入れることが出来ます。そして、たとえ理由はわからなくとも、無意味なものではなく、むしろ善なる神がご主権をもって最善の結果を導き出されたことを信じることが出来るのです。そうするときに、神ご自身がどんなものにも影響されずに、ご自分の義、愛、あわれみ、真実を貫かれるように、イエス・キリストを信じる私たちのうちにも、周りの影響を受けない不変の神のかたちが形づくられて行くのです(ローマ5:3~5)。
真実なる神
神の本性と信仰生活,神の真実性¦コメントは受け付けていません。
1、神の真実性
神の真実性とは、神が真の神であり、常に真実を語られ、真実を行い、忠実に行われることを意味します。聖書の非常に多くの箇所は、聖書の教える神が真実の神であると教えます(申命記32:4、詩篇31:5、イザヤ49:7、ローマ3:4、Ⅰコリント1:9、10:13、Ⅰテサロニケ5:24、Ⅱテサロニケ3:3、Ⅱテモテ2:13、ヘブル10:23、11:11、Ⅰペテロ4:19、Ⅰヨハネ1:9、5:20)。神が真実であられることは、クリスチャンの信仰の根幹に関わります。もし、神が真実の神ではなかったら、どうなるのでしょうか。そうするなら、聖書の神は実際におられるのか、おられないのかわからないことになります。おられるにしても、聖書の言うとおりの神ではない可能性が出て来ます。そうすると、クリスチャンが神を信じるということは、単なる気休めになってしまいます。現実にどうであるかは、無関係であり、本人がそう思っていればよいということになります。そうしますと、聖書が影響を与えるのは、その人の精神世界だけであり、現実には何の意味も持たなくなってしまいます。しかし、聖書は、神は真の神であり、真実の神であると、非常に多くの箇所で、しかも確信をもって述べています。神が真実であられるならば、その神を信じる者は、確固とした土台を据えることになります。そして、その神を知り、その神の語られることを知ることは、現実を正しく把握することに繋がり、その信仰は現実生活のあらゆる面において、また、未来において、死後も含む未来において、確実な知識と判断を与えることを意味します。クリスチャンの信仰は、神の真実性にかかっていると言っても過言ではありません。
神が真実であられると言うことは、神が唯一であるということとも関わってきます。複数の宗教が存在しいてもかまわないと考えるならば、必然的に、どの宗教もそれが真実であるかどうかを問わないということになってきます。しかし、真実の神がおられるのならば、真の宗教も一つでなければならないことになります。そして、真実の神がおられることを信じる人は、真の宗教を探求するはずです。
しかし、主はまことの神、生ける神、とこしえの王。その怒りに地は震え、その憤りに国々は耐えられない。あなたがたは、彼らにこう言え。「天と地を造らなかった神々は、地からも、これらの天の下からも滅びる。」と。 エレミヤ10:9~10
2、真実な神
神が真実であられることは、神の本性であります。つまり、神であるということと、真実・真理であるということは、まったく一つなのです。神は「偽ることのない神」(テトス1:2)であられると同時に、偽ることができない(ヘブ6:18)とも言われます。「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである」(Ⅱテモ2:13)とも言われていて、神が真実でなくなるとしたら、それはご自身を否むことになると言われています。しかし、神は、それができません。つまり、神が神であられる以上真実以外はあり得ないのであって、偽らないだけではなく、決して偽ることのできないお方であります。
3、神の言葉は真実
これに対し、人間はなんと偽りに満ちていることでしょうか。とくに商売などにおいて、私たちは最初から疑ってかからなければならないことがなんと多いことでしょう。そこには、嘘、誇張、ごまかし、都合の悪い事実の隠蔽などがあふれています。それは、故意の偽りですが、そうでなくても、真実であるということは人間には不可能と言えます。それは、人間の知識は不完全であり、とくに明日のことはわからないからです。不完全な知識と悟性から導き出される言葉と行いは、私たちがどれだけ真実であろうと願っても、常に真実でない可能性に満ちています。しかし、神は全知の神です。過去・現在・未来にわたって、あらゆる場所にある、見えるものも、見えないものも完全にご存じの神が語られることば、下される判断は、常に真実であります。「完全な知識を持つ方」(ヨブ37:16)の言葉は、常に真実です。
神の言葉が真実であると言うときに、神の約束が真実であることも指します。このことは、神の全知性だけでなく、神の全能性とも関係します。私たち人間は、様々な弱さの故に、約束が守れないことがあります。忘れたり、力が足らなかったり、意志が弱くて実行できなかったりするものです。しかし、神は契約を忘れず絶えず思い起こされる方です(創世記9:16、詩篇106:45等)。また、90歳の不妊のサラに、約束に従って、子を生ませられたことによって、また何より預言に従ってイエス・キリストをよみがえらせられたことによって、約束を成し遂げる力があることを示されました(ローマ4:19~24など)。そして、神はご自分の「ことばを実現しようと、わたしは見張っている」お方であると言われています(エレミヤ1:12)。
4、クリスチャンの信仰は神の真実にかかっている
聖書は、神が私たちの罪をゆるし、きよめてくださるのは、神が真実であられるからと言います(Ⅰヨハネ1:9)。クリスチャンが罪から守られ、最後まで霊、たましい、からだが守られるのも、クリスチャンの信仰深さや、忠実さによるのではなく、神の真実さによると言われています(Ⅰテサロニケ5:24、Ⅱテサロニケ3:3)。そして、神の真実さは、私たちに耐えられないような試練は与えられない保証であるとも言われています(Ⅰコリント10:13)。神を信じることは、神が真実であられることに確認の印を押すことであるとも言われています(ヨハネ3:33)
しかし、神が真実であられるからと聖書が語る箇所は、ほとんど、現実からは神が真実であられることが理解できないようなときにおいて、神の真実に信頼するように勧められています。神は約束を思い返されるだけでなく、民に対しても約束を思い起こさせられる方でした。アブラハムにたいしても、75歳の時に子孫を与える約束をされ、実際に子が与えられたのは、実にその25年語でしたが、その間何度かアブラハムに現れ、契約を確認し続けられました。今のクリスチャンも、真実のことばである聖書によって、神が真実であられることを知り、またそのことばによって支え続けられています。
5、神の真実は信じる者に真実な歩みをさせる土台となる
人間は知識においても、能力においても限界があり、真実に生きることに非常な困難を覚えます。それだけでなく人を恐れ、人の反応を気にするために、真実を曲げることも少なくありません。しかし、真実である神を知ることは、自分の能力にかかわらず、誤りのない知識の土台を築くことになります。神ご自身と、神の知識が真理そのものだからです。
また、真実の神が自分自身を知っておられるということを知るならば、対神の関係において偽りから守られます。神はすべて知っておられるので隠すことができないからです。人が偽ることの一つの大きな理由は、罪を持っているからです。常に負い目があるために、真実の自分をさらけだすことに恐れを覚え、その結果隠し、偽ります。それは、アダムとエバが最初に罪を犯したときに神から隠れたところからすでに始まっています。しかし、神は私たちのために弁護する方をお与え下さることによって、罪ある私たちが偽ることなく神の御前に出られるようにしてくださいました(Ⅰヨハネ2:1~2)。
神こそまことの裁き主であり、すべてをご存じの神の裁きは常に真実です。そして、人をゲヘナに投げ込む権威を持つお方です。しかし、そのお方と和解することができるならば、私たちはゲヘナに投げ込む権威を持ったお方の前で、偽ることなく、真実であることができるのです。このことは、そこまでの権威を持っていない人間の前で真実に生きることのできる土台となります。この土台がなければ、自分の罪や失敗を打ち明けることは、恐ろしいことに他なりません。イエス様が地上におられた時代、行いにおいて熱心であったパリサイ人たちが、かえって偽善に陥ってしまい、他の人たち以上に、偽善をあばかれることを恐れる者となってしまい、人を恐れる者となってしまいました。自分の力で、真実な歩みをしようとすることの限界を見ます。しかし、もっと恐ろしい方との和解がかなうとき、その恐れから解放され、真実でない者が真実な歩みをする力を与えられるのです。
善なる神
神の善性,神の本性と信仰生活¦コメントは受け付けていません。
1、神の善性
神の善性とは、神が「良い方」であるという意味で使う言葉です。「良い」という言葉は、非常に広い意味を持っています。旧約聖書の原語でも「良い」という言葉は、実践的、物質的、経済的に良いこと、望ましいもの、喜ばしいもの、美しいものについて、質や効率について、道徳的によいことについて、そして人生において何が良いかについてなど、非常に広範囲の事柄について使われる言葉です。これは、日本語の「良い」という言葉の使い方にも、かなり共通点があるように思われます。ここで覚えたいのは、神が良い方だと言われる時、道徳的善だけを言っているのではなく、すべての事柄について良い方であり、良いことのみをなされるお方であるということを言っているということです。
神は「良い方」であるということは、イエス・キリストがはっきりと明言されました。イエス様は、「良い方は、ひとりだけです」と言われました(マタイ19:17)。並行記事マルコ10:18(ルカ18:19)では、「尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません」と言われています。この「尊い」という言葉は、「良い」と全く同じ言葉が使われています。そして、その良い方は、聖書の言う神であり、それ以外に「良い方」と言える存在はないと言われているのです。そうしますと、先ほど「良い」という言葉が道徳的なことだけでなく、あらゆることに当てはまることを見ましたが、そのあらゆることにおいて完全に「良い」と言えるお方は、神おひとりしかおられないという意味であることがわかります。これが聖書の主張であり、イエス・キリストの証言です。
2、聖書の神はすべての価値基準
「良い」という意味は、「正しい」と同じ意味ではありません。「正しい」という言葉は、ある点で法律的であり、規範を現しています。しかし、「良い」という意味には、「正しい」よりも幅広く、望ましい、喜ばしい、称賛に価するという意味も含まれます。ここには、価値とか評価といった側面があります。単に正しいというよりも積極的な面です。ところが、この何が「良い」かという基準は、時代により国により随分ことなります。個人の間でもかなり違うものです。神がおられないとするならば、何が良いかという価値基準は、時代や人によって変わってしまうものであって、ある行為の価値も人や時代によって大きく変わり、あるときは非常に評価されることがあっても、あるときには、まったく無価値と見なされることもあり得ます。また、人間の考える良いこと、善は、自分に害を及ぼさないこと、自分にとって好ましく、望ましいことです。それは、自分の体調や環境によって変わるでしょうし、言われた言葉によっても変わります。また集団における良さは、ともすると流行であり、多数決的であります。大人数が益と見なせば、戦争でさえ善となり得ます。あるいは、大きな魅力、権力などの力を持った少数の人物によって決められたりします。そのような人間の善は、非常に信頼のおけないものです。しかし、聖書は人や環境に左右されない善があることを教え、すべての善の源は、神にあると教えています。「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません」(ヤコブ1:17)。そして、神は永遠の神であられますから、その基準は決して変わることがありません。
神が良いことをなされるというのは、創造の記事から見ることが出来ます。「そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった」(創世記1:31)。このことは、神が良いことを成されたと同時に、神が造られたすべてのものは、本来神の基準から照らして「良い」ものであったことを教えます。つまり、有益であり、美しく、望ましく、喜ばしい存在であったのです。しかし、サタンの使い、蛇は、それ以外に良いものがあるとして、アダムとエバを誘惑しました。
あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。 創世記3:6,7
この時、神が食べてはならないと命じられた実は、エバの目に食べるのに「良く」、目に「慕わしく」、「好ましかった」とあります。神がよしとされたもの以外に良い物があるとする誘惑に負け、神の命令に背いてその実を食べた結果、罪が入り、死が入り、そしてすべての被造物ものろわれて、本来の良さの多くを失ってしまいました。ここには、人が良いと思うものが必ずしも良いとは限らない実例があります。むしろ、神を離れたときに、恐ろしく倒錯した判断をしてしまいました。イエス・キリストが「良い方は、ひとりだけです」と言われたとき、神のみが完全に良い存在であり、神が良いと思われるもの、神がよしとされるもの以外に、良いものは存在しないことも教えています。
3、神は良いことをされる方
神の善性が、神のご性質を言うとき、神は良いことしかなされないことを示します。しかし、それが人間の目に良いと見えるとは限りません。しかし神が善なる方であることを学ぶとき、たとえ私たちの目によく見えなくとも、神は良いことをなさるのだという確信が与えられます。
それだけでなく、神はご自分の選ばれた者に対し、良い物を拒まれないお方です。詩篇104~107篇は、神がご自分の民に常に良いことを図られたことを告白しています。106:1の「主はまことにいつくしみ深い」の「いつくしみ深い」は、「優れて良い」という意味の言葉です。そこには、神の怒りや、罰を与えられたことも書かれています。そのことも含めて、神は優れて良いことをなされたのであるから、その御業をほめたたえよと告白しています。また、イエス様は、地上の父でさえ子に良い物を与えるのだから、「求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう」(マタイ7:11)と教えられました。また、ローマ8:28には、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」とあり、32節には「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」と言われています。ここに、神はご自分を求める者、神が選ばれた者に対し、良い物を喜んでお与えになり、拒まれない方であることが教えられています。それは、ローマ8:32が教えるように、キリストの贖いにおいて、完全に現れ、示されました。神が、罪を犯し、罰するにふさわしい者となってしまった人間に対し、最も良いことを図ってくださったのが十字架の救いでした。そこには、神の聖、義と公平を犠牲にすることなく、罪を完全に裁き、完全に人を罪と罪の負い目から切り離し、神のもとに取り戻すことを可能としました。それは、第一に神にとって良いことでありました。それと同時に、神にとってこの上なく「良い」方であるイエス・キリストを信じる者にお与えになったという事実がそこにあります。「良い」ということは、神にとって「良い」ことであります。神が「良い」ことを成されるとき、それは、人間に善なる神が持てる最大の「良い」方を与えになるのだという事実、それがキリストの十字架でした。キリストの十字架の贖いは、神が贖った者に対して、それ以外のすべてのことにおいても、神は最善をなされるということの保証でもあります。
4、神の善性を知った者は
神が「良い」方であるとき、「良い」とは、あらゆる「良い」ものを含むことを学びました。そして、「良い」というのは、喜ばしく、好ましく、慕わしいものです。その事を知るとき、人が求めるべきすべてのものは神の中にあることを知ります。そして、神から善を学ぶとき、それは見えない世界だけでなく、見えるこの地上で生きていく上においても、絶対的な価値を保証してくれるものでもあります。
神は、人を造られたとき、神のかたちに人をお造りになり(創世記1:26~27)、人を含めた世界を「非常によかった」と言われました。これは、人が本来的に神の善性に似せて造られたということであり、人間の存在において、性質において「良く」造られ、神にあって「良い」行いができるように造られました。しかし、人に罪が入ってから、人は神の「良い」と言われるものを知ろうとせず、拒み、良いものに関して無知となり、良いことを行うことができなくなりました(参考エペソ4:18~19)。しかし、イエス・キリストによる救いは、キリストによって良い行いができるようにさせることを、聖書は次のように言っています。「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」(エペソ2:10)。そのために、まず神の目に何が良いかをわきまえ知ることが勧められます。「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」(ローマ12:2)。そして、「…私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行ないましょう」(ガラテヤ6:10)と勧められます。詩篇著者は、「あなたはいつくしみ深く〔良く〕あられ、いつくしみを施されます〔良きことをなされる〕。どうか、あなたのおきてを私に教えてください」と祈ります。神が良い方であられるゆえに、良いことを行われる。自分もその良さを知り、良く行えるように、聖書の真理を教えて下さいと祈るのです。
神が善であられることを知るなら、私たちの人生におけるすべての良いこと、誉れあること、望ましく、喜ばしい、つまり追い求めるべきものは、すべて神の内にあることを知るのです。その人は、善なる神に頼り、祈り、聖書にそれを求め、それを基準として価値を認め、それを追い求めて行きます。そして、神はその人の内に良い物を形づくり、良い行いをさせて下さるのです。それは、神にとって喜びであり、その人にとっても喜びとなります。また、神が善であることを知るならば、たとえ自分の目に憂える事態に陥っても、それにふりまわされず、それでも神は良いことをしてくださっておられることを信じて、すべてのことの中にあって感謝することができるのです(Ⅰテサロニケ5:18)。
愛なる神
1、神の愛
聖書は、「神は愛です」(Ⅰヨハネ4:16)と教えます。今の世の中で愛は非常に親しみやすい言葉であります。神が愛であることは、これは神の素晴らしさを表す大切な事柄の一つですし、聖書の重要なメッセージの一つでもあります。しかし、その愛は私たち人間が考えるような愛とはかけはなれたものであることも、また事実であります。私たちの知っている愛から、神の愛を予測することは不可能です。聖書は「…愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです」(Ⅰヨハネ4:7~8)と教えます。ここに神の愛とは、神のご性質そのものであることが、はっきりと明言されています。つまり、聖書の教える神を知ることと、愛を知ること、愛を持っていることは、まったく一つのことだと教えています。ですから、聖書の神を知ることなく、聖書の神の愛を知ることはできないのです。
2、神のご性質としての愛
神の愛が、神のご性質であるとは、どのような意味でしょうか。それは、神の愛は、神の他のご性質と矛盾せず、むしろ他のご性質を反映したものであると言うことです。神の愛は、聖であり、義であり、あわれみに満ちた愛です。また、神の愛は無限であり、永遠であり、場所に束縛されず、変わることがありません。そして、父なる神、子なる神、聖霊なる神は、相互に神の完全な愛で結ばれている関係でもあります。
これは、どういった意味を持っているのでしょうか。まず、神の愛は、人間を条件としません。神は、愛の対象の為に人間を造る必要があったのではありません。イエス・キリストは父なる神に「あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです」と祈られました。ここに、父なる神と、子なる神キリストの間には、人が存在する前から愛があったことが明言されています。ですから、三位一体の神は、愛する対象においても、愛されることにおいても完全であり、何の不自由も持っておられません。ですから、神が人間に愛される必要はありませんし、人間が神に愛してもらえるような何かを提示することは、まったくできないということです。
申命記7:7~8には、次のように書かれています。
主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。
しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。
これは、神がイスラエルを選ばれた理由は、国力ではなくて、神ご自身が愛されたからだと言われています。ここには、神の愛が、人に神に愛される条件があるから愛するものではなくて、神の側に愛する意志があるから愛するのだということが教えられています。神が人を愛されるか、愛されないかは、神の意志によるのです。人間は、自分の心が惹かれるものを愛します。ですから、移り変わりやすく、賄賂によって曲げられ、非常に信頼のおけないものでしかありません。しかし、神が一度愛されるならば、それは条件によらないのですから、神の愛を左右するものは何も存在しません。また、人の愛は、偏ります。ある人に人気が集まったり、奪い合ったりします。しかし、神の愛は、ある人が自分に惹きつけることも出来なければ、占有することもできません。逆に神が愛されるならば、時間や、場所に左右されることはありません。
神は、イスラエルに預言者エレミヤを通して『主は遠くから、私に現われた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた…」』(エレミヤ31:3)と語られました。これは、エルサレムが異教の神々や、外国に力に依り頼んで、神の遣わされた預言者の声にも耳を傾けなかった時代、そして、その裁きとして、すでに多くの民がバビロンの捕囚となっていった時代に語られたお言葉です。永遠の愛というのは、生まれる前、つまり善も悪も行う前からです。そして、神のお言葉に従い、神をほめたたえた時代もそうであれば、神に反抗しているときもそうです。そして、その罪のために裁きを受けている間も、なお変わらないと言われます。それは、人間にとって常に優しい態度をとられることではないことも、この箇所は教えています。しかし、それでも変わらないのが神の愛なのです。
3、ねたむ愛
神の愛の特徴として「ねたみ」を挙げることが出来ます。神ご自身が、ご自分を「ねたむ神」だと言っておられます(出エジプト20:5、34:14)。聖書において神の愛は、人間の婚姻関係になぞらえられています。結婚は、「選ぶ」愛であり、「契約」を結ぶ愛であり、その契約に「忠実」を求める愛であります。そして、その関係を慕うが故にあらわれる性質が「ねたみ」です。これは人の罪であるねたみとは違います。罪であるねたみは、自分のものでないものを欲しがるねたみです。しかし、婚姻関係についてのねたみは、自分のものに対する情熱の現れであり、契約と忠誠への執着の現れです。そして、神のねたみは、焼き尽くす火と言われているほど激しいものです(申命記4:24)出エジプト20:5では、ねたむ神であるから、他の神を拝んだり、仕えたりしてはならないと言われています。そして、それほど愛される神であるが故に、背きの罪に対して激しく怒られるのです(ヨシュア記24:19)。
また、神は三位一体の神をねたむほど慕っておられます。そして、クリスチャンにその三位一体の神であるご聖霊を住まわせてくださるのです(ヤコブ4:5)。そして、クリスチャンは、イエス・キリストがいのちを捨てて買い取られた人です。父なる神が、子なる神、ご聖霊をねたむほど愛しておられる愛は、キリストの身代わりによって買い取られ、ご聖霊を住まわせられたクリスチャンに注がれるのです(ローマ5:5)。
4、ご自分の性質にあずからせる愛
神が私たち人間に愛を注がれるとき、それは私たちを罪の滅びから免れさせ、ご自分の尊いご性質にあずからせるためであると聖書は教えます(Ⅱペテロ1:4)。つまり、神の聖、神の義、神のいのち、神の愛にあずからせるためです。それは、懲らしめられるという特徴も持ちます。そして、懲らしめられる事こそ、子として扱ってくださることの証しだとも言われます。
そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
ヘブル12:5~7
そして、もし懲らしめられないなら、むしろ私生児であると言います(12:8)
ここまでは、人間の親子関係になぞらえられていますが、人間の親は「短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめる」ともあり、人間の親の愛とも対比されています(12:10)。短い期間というのは、一つは成人するまでの限られた期間であり、もう一つは、この地上のいのちは限られているからです。そして、「良いと思うまま」、というのは、人間の父親は完全ではないからです。「良いと思う」ことが、いつも本当に良いとは限りませんし、「良いと思う」ことがころころ変わったりします。しかし、神はいつも最善をもって導かれます。神があずからせようとしておられるのは、人間のではなく神のご性質です。そして、それは変わることがありませんし、どんな人間が持つものよりも、はるかに優れたものです。そして、神は永遠の父です(イザヤ9:6)。
そして、やがてキリストの再臨の時に、キリストに似たものとされ、罪の滅びと、性質を免れ、神のご性質に豊かにあずかる約束がされています(Ⅰヨハネ3:2~3)。
5、神の愛はキリストの贖いによって知る
では、この神の愛はどのようにして知ることが出るのでしょうか。Ⅰヨハネ3:16は、「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです」と教えています。イエス・キリストが私たちの罪のために犠牲となられたことを知り、受け入れて、初めて神の愛がわかるのです。キリストの十字架には、私たちの罪がいかに恐ろしく重いものかということと、そのためには、罪なきひとり子をも身代わりとしてくださるという愛の深さが、またそれが、この私のためであるということが、豊かに現されているからです。これを受け入れる人は、神の愛を自分に対して注がれたものとして受け入れ、体験するからです。これ以外に神の愛を知る道は、聖書には書かれていません。
また、これは一方的な愛でもあります。誰も、自分から神を愛した者はいないとあります(Ⅰヨハネ4:10)。この神の愛に対して誇ることの出来る人は一人もいないのです。そして、ねたむほど慕う神の永遠の愛は、どんな被造物も決して引き離すことのできないものなのです(ローマ8:35~39)。
憐れみと慈しみに富む神
神の憐れみと慈しみ,神の本性と信仰生活¦コメントは受け付けていません。
1、あわれみ深い神
聖書の神は聖なる神、義なる神であられると同時に、あわれみ深い神でもあられます。もし、神があわれみということなしに、義と公平だけであり、それを実行されたとしたならば、この地上で裁かれずに生き残ることの出来る人は、一人もいないでしょう。もし哀れみがなければ、神の義と公平は私たち罪ある人間にとって非常に恐ろしいもの以外の何者でもありません。生かされる理由、頼れる理由、御前に出る理由のすべてが絶たれてしまいます。ですから、神のあわれみ深さというのは、私たちと神の関係を知る上で、私たちが神に依り頼む上で、重要な側面を持っております。
2、神のあわれみとは
①ご自分のもの、ご自分の子に対する思い
まず、「あわれみ」という言葉の意味について学びます。旧約聖書の「あわれみ」という言葉は、もともとは内蔵、とくに母の胎を表す言葉です。そこから転じて、母が自分の腹を痛めて生んだ子どもに持つ思い、強い思いやりを示すようになりました。実際にイザヤ49:15において、ご自分の名を置かれた街、エルサレムに対して、母親が自分の子をあわれみ、忘れない、それ以上に神はエルサレムをあわれみ、忘れないことを告げておられます。そして、この「あわれみ」は、ご自分の子である故に、ご自分の所有であるゆえに持つ思いでもあります。この、子であることと、所有であることには、質的条件が伴いません。もし、神が私たちを質的条件だけで取り扱われるならば、私たちは神の義と公平によれば、とうの昔に滅ぼしつくされてしまうはずであったことを聖書は告げます。子を持つ親は、もちろん自分の子であるが故に、子どもの質、つまり人格や資質に無関心ではありません。むしろ、期待し、養い育てます。しかし、期待が裏切られたからと言って、思い通りにならないからと言って見捨てたり、他の者と取り替えたりは通常しません。そこには、能力や損得などの条件とまったく別次元の根拠があります。それが「あわれみ」です。さらに神のあわれみは、人間のあわれみとも別次元です。先ほどのイザヤ49:15でも、母のあわれみに喩えながらも、たとえ実の母がその子を忘れることがあっても、神は忘れないと言われています。
神旧約聖書では、この「あわれみ」という言葉が、「惜しむ」という言葉とセットで使われている箇所が11回もあります。それは、聖書の言う「あわれみ」という言葉が「惜しむ」という側面を持っていることを示します。たとえすべての条件は、裁かれるにふさわしいとし、選ばれるにふさわしくないとしても、神の「惜しむ」という根拠は、これらの条件に優ります。神は、異教の国であり、イスラエルに対して残虐な国であったアッシリヤ帝国の首都ニネベの民を惜しむと言われました。預言者ヨナは神の命令で、40日後に神がニネベの罪のために、ニネベを滅ぼされると告げました。ヨナは神のあわれみを知っていた故に、彼らが悔い改めれば、神の怒りから救われる事を知っていました。それは、ヨナにとって耐え難いことでした。実際に、ニネベの人たちが悔い改めて、神が裁きを取りやめられたとき、ヨナは非常に怒りました。しかし、神は灼熱の太陽を遮るとうごまをヨナが惜しむならば、それ以上に神は、ニネベに生きていた十二万以上の人間と家畜を惜しまないでいられようかと、ヨナに告げたのでした(ヨナ4章)。これは、私たち人間に考えられないことです。イスラエルに敵対する国であり、強国であるアッシリヤを、どうしてゆるしてしまうのか。これは決して人間の持ち得ないあわれみです。
②無条件的なあわれみ
神がモーセにご自分を啓示された時、
わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよう。わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。
出エジプト33:19
と語られました。ここには、神があわれまれるか、あわれまれないかは、まったく神の側に選択権があることが告げられています。この決定に対して、人間が条件をつけることは、まったくできないというのが聖書の教えです。
ここに人間に対する神のあわれみを二段階に考えることが出来ます。第一に、人間は神に受け入れられる条件を全く持たないということです。この人間が神に受け入れられるとすれば、それは神のあわれみにかかっているということです。第二には、そのあわれみは人間が神に対して、ある条件を持ち出して、当然のことのように要求することはできないということです。神が「あわれまない」と宣言されれば、それは絶対的なものです。しかし、もし神が「あわれむ」と宣言されるならば、それはどれだけ特別なことでしょうか。
3、ローマ9:19~33に表されている神のあわれみ
この箇所には、神のあわれみの尊さがよく表されています。まず、神はこのあわれみが無条件的、つまり神の選びにかかっていることを告げます。その例として、神がイサクの次男ヤコブを選ばれたことを挙げます。ヤコブは、「まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの計画の確かさが、行いにはよらず、召してくださるようにと、「兄は弟に仕える。」」と、ヤコブの母リベカに告げたことが語られます。そして、モーセに神が示された先ほどの出エジプト33:19を引用し、「したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神による」という結論を出しています(9:16)。そして、19節には、それに対する私たち人間の疑問が代表されています
すると、あなたはこう言うでしょう。「それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう。」 (9:19)
神をどのようなお方であるかを知らないと、神を私たち人間のように考えてしまい、神がそのようなご計画を立ててしまったら、人間には何の責任もないではないかと言うのです。しかし、それに対し神は、人間と同列にならべられるべきお方ではなく、陶器師と器の関係もって示される関係のお方であることを伝えます。
しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と言えるでしょうか。陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。
(9:20~21)
神のあわれみを知るには、まず、この神との正しい関係を踏まえなければなりません。そして次のように語られます。
ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。(9:22~23)
陶器師は、よい器ができるまで、悪い器はいくつも、いくつも壊していきます。悪い器は陶器師の値打ちを下げるからです。しかし、神は人間のように、失敗をなさる方ではありません。どのような目的で、私たちをこのように造られたのか厳密な意味では解りませんが、少なくとも、今の私自身を見るならば、現に罪深い、弱い存在です。もし、聖書の神以外が、聖書の神のような権限を持って、このような私を見られるならば、間違いなく壊される者であります。しかし、そのような者を選び、ご自分のものとし、ご自分の子としてのあわれみと、いつくしみとを注がれるのです。そして、実は、それは究極的には、神の豊かな栄光を自分自身が味わい、またそれを知らせるための器としてくださったということを教えています。
ここにおいて、神の無条件的選びは、あわれみを豊かに知らせるものとなります。なぜなら9:25~226で
それは、ホセアの書でも言っておられるとおりです。「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ。
『あなたがたは、わたしの民ではない。』と、わたしが言ったその場所で、彼らは、生ける神の子どもと呼ばれる。
と言われていて、ユダヤ人以外の異邦人は「わが民ではない」と言われた者であり、「愛さなかった」と言われる者です。それを「わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ」と言われます。それを可能にするのが、神の「あわれみ」です。人は、神の「あわれみ」なしに決して受け入れられる存在ではありません。しかし、神が「あわれむ」と宣言されるならば、それは何にも優って、私たちを保証するものであり、なぐさめとなります。
聖書は、私たち人間のために神が救いを備えられた事、そしてその道を教えます。神が人をお救いになる大きな根拠、動機となるのが、このあわれみです。もし、神にこのあわれみがなく、義と公正さだけがあったのならば、私たちはとうの昔に滅ぼされていたはずです。しかし、今なお生きる事が許され、太陽、空気、雨、食物などの自然の恵みを受けています(一般恩寵)。これは、神のあわれみのゆえです。それにも優って、神は罪を持った人間をもう一度神のものとし、神のかたちを回復させ、聖なる立場を与え、ご自分の子にしようとして、救いのご計画を立てられました(特別恩寵)。これは、測ることのできない、神の大きなあわれみそのものなのです。
義であり公平である神
神の本性と信仰生活,神の義と公平¦コメントは受け付けていません。
1、義なる神
聖書の神は義なる神だと教えられています(創世記18:25、申命記32:4、詩篇11:7など)。神が義であられるということは、神ご自身の内にはまったく不義がないこと、神ご自身が思い計り、実行されることがすべて正しいことを意味します。それだけでなく、聖書の義という言葉は、法律的な用語でもあります。かならず義と不義とが区別され、裁かれるものとして書かれています(申命記10:17~18、詩篇98:9、ダニエル9:14など)。神が義であられるということは、神の義にもとる者は、必ず裁かれ、罰せられなければならないことも意味します。
このように神が義であられるということを考える時、神が義であられるならば、なぜこの世に悪が存在するのか、完全に正しいと言えるものがこの世に存在するのか、正しいといえる事柄は一つしかないのか、それとも複数存在するものなのか、悪を行っている者が栄えることがあるのはなぜなのか、あるいは神は非人格的な裁判官なのかという疑問が起きうるでしょう。神が義であるという聖書の教えを知ろうとすることは、これらの疑問と真剣に取り組まなければならないことを意味します。そのことを考える時、神が義であられるということを、自分の人生において真剣に信じるということは、様々な困難と直面することを予感させます。しかし、それに取り組んでいくことは、神が義であられることの尊さと、神がご自分の義を、罪深い人間にお与えになろうとしていることが、いかに豊かな恵みであり、特別なことであるかを知らされていくことでもあるに違いありません。
2、完全な神の義
聖書は「主は岩。主のみわざは完全。まことに、主の道はみな正しい。主は真実なので、偽りがなく、正しい方、すぐな方である」と告げます(申命記32:4)。
また、神ご自身、ご自分が義であられることを主張されます。ヨブ40:1~8では、神ご自身がヨブに現れ、語られます。ここで神はご自分が全能者である、つまりこの世界の秩序を定め、善悪を定め、すべてを知り、見極めることの出来る方であるから完全に正しいと主張されると同時に、人に論じ合おうとも言われます。聖書は、真に神と論じ合って自分の潔白さを主張できる者は一人もいないことを教えます。ヨブは、友人達に対して、あるいは(神の臨在を目の前にする以前)神に対して、言いたいことがたくさんあり、多くの言葉で自身の潔白を主張しました。しかし、すべてを知っておられる神を目の前にして、神から論じ合おうと言われたとき、ヨブは言葉を失ったのです。これと同じようなことを神は、イザヤ43:26~28でも語られます。この「論じ合おう」という言葉はイザヤ1:18でも語られます。
ヨブ40:8ではは、神以外のものを義とするとき、神を裁く者となり、それは神を罪に定ようとする行為であることが教えられます。聖書には、決して二つの義は存在しません。どちらかが正しければ、どちらかは不義なのです。神の義を認めるならば、必然的に人間は不義であることを認めなければなりません。
神が義であるならば、私たちが「本当に正しいことを知る」ということと、「神を知る」ということが同義であることを認めることとなります。それは、何が真に正しい基準であるかを追求することは可能であり、その答えもあるということ、そしてそれは不変であるということです。それと同時に、神の偉大さ、無限性を覚えるならば、神の義も人間には知り尽くすことのできないもの、むしろ私たちの最大に知りうる義(人には充分である)も神の義の一部に過ぎないと言うこともできます。そうであるならば、たとえ人から罪の性質がすべて取り除かれたとしても、なお人間は神に信頼し、神に聞くことなしに、義に生きる事はできないということです。むしろ、聖書は、アブラハムが義なる神とその約束を信じたことにより、それを「彼の義と認められた」と言っています。約束というのは、まだ成就していないことを信じることを要求するものです。成就していないということは、まだ知らないということでもあります。しかし、それは全能にして義なる神の御約束なのです。それを信じるということは、私たちの人生において神が義であられ、義をなすお方であることを信じなければなりません。神が義であられ、義をなすお方であられるならば、その神の御言葉、御約束に信頼して生きることは、神の義の中に生きることでもあります。それは、たとえ神の義のすべてを知らされていなくても、あるいはほんのわずかしか知らなくとも、さとしを与える方、知恵を与える方、わざを与える方が義であるがゆえに、神のお言葉を信じる人の生き方も義となるはずです。
3、神の義は人を救う
聖書は、神の義が、それにもとるものが断固として裁かれなければならないという厳粛な面を教えます。しかし、それと同時に、神の義は、神の救いのわざと関連づけられて語られています(Ⅰサムエル12:7、詩篇35:28、51:14、71:15)。
神の義は、神のみが完全な義を持ち、神の義に従わない者を罰するという側面を持つと同時に、愛と哀れみという神のご性質を誠実に行われるという意味も持つからです。それは神の民イスラエルを不義な抑圧者や迫害する者から救い出す(詩篇40:10、イザヤ11:4)義であると同時に、義から遠ざかっている者たちに対し、ご自分の義に近づけることを告げています(イザヤ46:12~13)。
先ほど述べた、神が人に対し「論じ合おう」と語られた箇所のうち、イザヤ書の2箇所は、罪を取り除き、雪のように白くしよう、あるいは罪をぬぐい去り、思い出さないと語る言葉と合わせて語られています。ヨブ記においても、理解することのできない長い苦しみの中でも、すべてにまさって偉大な義なる神の前にひれ伏して、自分を義としたことを悔い改めたヨブに対し、神はそのヨブを罪に定めず、むしろ受け入れ、ヨブを責めた友人のためにとりなす立場を与えられます(42:8)。
この時、ヨブの苦しみがサタンの策略であったことが読者には知らされますが、ヨブ自身には知らされることなく、解決に導かれます。ここには、義なる神に対する私たちの持つべき姿勢と、その神に受け入れられる者として、お取り扱いを受けることのできる幸いが教えられています。これは、私たちの日常生活で、不公平に思えること、神が義を行うことを差し控えられているように思うこと、悪が裁かれないままにすまされるように思うことの中にも、義なる神のご計画が必ずあることを教えられます。その神のお取り扱いに疑問を持つとき、神は私たちに「来たれ、論じ合おう」と言われます。全能なる神は、私たちにその理由を説明する義務を負っておられません。しかし、必ず義を行われる―それは神が愛とあわれみを誠実に行われることを含む―ことを私たちは聖書から教えられていきます。
義を行われるということは、悪には罰を報い、正しい者には報いを与えるということでもあります。この地上の出来事だけを見れば、神は不公平に見えます。詩篇の作者もその事で苦悩しました。しかし、神の聖所に入ったとき悪者の最後が滅びであることを悟ります(詩篇73:17~20)。神の義と神の公平を考えるならば、すべての人は罰の対象となり、滅びるしかありません。神にあわれみがなく、公平でだけあったのならば、必ずそうなります。しかし、神の愛と哀れみに満ちた義のゆえに、神は人の罪を赦し、きよめ、取り除き、ご自分の義に与らせようと願っておられ、その道を備えてくださったのです。
そのような神に、私たちは神の義を拠り所として祈ることができます。アブラハムは、神の義を根拠として、甥のロトが住むソドムとゴモラの為に、身を挺してとりなしました。モーセもしかりです。そして申命記32:3,4には、神が義であられ、忠実に義を行われる方であられるからこそ、神に栄光を帰すように命じられています。だからこそ神は礼拝が捧げられるべきお方であり、礼拝をお受けになる資格を持っておられる神なのです。この神の義の完全さを知るとき、私たちの心に平安が与えられ、感謝と讃美がわいてくるのです。
神は聖なる方
1、道徳的属性
神の本性というとき、他の存在にはない神ご自身しかもっておられないご性質であり、その性質そのものが神ご自身の存在と深く結びついている、あるいは神の実質と言えるものでした。これから学んでいく、神の道徳的属性は、人間にも与えられている性質であるが、神の持つそのご性質は質と程度の両面において、人間の持つそれとは遙かに高く、完全であるものについて言います。また、道徳的属性自体も、神の属性と言えます。つまり、神が知識、能力、空間、時間において無限・完全なお方というだけでなく、神は道徳的な存在であるということです。また、神は人格を持つお方であると同時に、その人格は道徳的であるという意味も持ちます。人間が考え出す神々は、道徳性を持たないエネルギー的な非人格的存在であったり、人間と交わることの出来る存在ではあるが、その道徳性においては随分問題を持っていたりします。しかし、聖書の啓示する神は、まず道徳性において完全なお方であります。これは、神を信じることにおいて、神に喜ばれることにおいて、神を信じる生活において、道徳というものが決して切り離せないということを意味します。また、人が神のかたちに似せて造られたという聖書の言葉は、人間は道徳性を持つ存在として造られたことを意味し、その道徳性の源泉、基盤、模範は神であることを意味します。また、神が最初にお造りになった人間は、神の道徳性と比べることはできないにしても、道徳的に欠けのない存在であったということです。その意味では、神の道徳性を知ることは、人間本来の姿を知ることにも繋がります。
2、神の聖
神が聖であられるということは聖書の主張です。神ご自身が「主であるわたしは聖であ」る(レビ20:26等)と主張され、天使達も「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主」(イザ6:3等)と言って神に栄光を帰しています。天使達が神について言うとき、「聖なる」と表現しますが、神ご自身は「聖なる」と言わず、「聖」と言われます。つまり、神ご自身の存在こそが「聖」そのものであるということです。神が聖であられるということは、ほとんどの学者が道徳的属性、伝達的属性として扱っています(つまり、人間も質と程度において神より劣るけれども、与えられている性質)。しかし、聖というのは他の道徳的属性とは、性質をまったく異にするものでもあります。それは、性という言葉が、神ご自身に属するものを指すのに使われ、それ以外のものと決して混ぜてはいけないもの、むしろ分離しなければならないものとして扱われているからです。神が、ご自分の民にご自分のように聖くありなさいと言われる時、「聖別」せよ(レビ11:44等)とも言われており、この世の神に属さないあらゆるものから自分を分けて取り、神に属する者としなければならないと言われています。この意味で、「聖」というものは、本来神にしかないものです。人間が最初に神に造られた時は、まったく神に属する者で、他の思想の支配をまったく受けていませんでした。神の「聖」に与っている存在でした。しかし、サタンの誘惑に従い、神以外の思想、サタンの思想に身をゆだねてから、神に属する者ではなくなりました。その結果(罪を犯した結果ですが)、エデンの園から追放され、神から隔離された存在となったのです。人間が自分から離れ、その結果として聖なる神と共存する場所から追放されたというのが聖書の教えです。そして、その堕落の影響は、全人類に及んだため、この世は神の聖とはまったく相容れない世界となったのです。
3、神の聖さは罪人にとっての恐るべきもの
神の聖とは、神ご自身しか持たないものとして距離感のある言葉として聖書は使っています。とくに罪人となった人間にとって、近寄りがたく、恐ろしいものであり、一歩たりとも近づけない存在となったのです。神が恐ろしくなったのではありません。人が罪を犯す前は、エデンの園において神と人とは、神がいと高き方であるという秩序を持ちながら、人間は神と親しく交わっていたからです。しかし、サタンの声に従い罪をおかした人間は、神の声を聞いて恐れ、身を隠そうとしたのです(創世記3章)。
神ご自身、イスラエルに対して特別な許可がない限り決して近づいてはならない存在として、ご自分を示されました。燃える柴を見て近づいてきたモーセには、「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である」(出エジ3:5)と言われました。エジプトを脱出したイスラエル人にご自分を示されるとき、神が指示された山の周囲に境を設け、イスラエルの民には衣服と身をきよめさせ、なおその境界に近づくことも許されず、モーセにだけみことばを語られました。そしてそのモーセも、神の栄光を見るとき、神に守られて、岩の裂け目に隠れて、なお、後ろ姿しか見られないほどでした(出エジ33:20~23)。
イザヤは、預言者として神に召されるとき、天使達が「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」と呼ばれる、聖なる神のご臨在を垣間見、「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」(イザ6:5)と言って恐れました。これは神の神殿でのできごとでしたから、イスラエルの中でイザヤは敬虔な人物であったことが伺えます。そのようなイザヤでさえ、神の聖を垣間見たとき、自分が汚れたものであるということを、いやというほど示されたのです。「もうだめだ」ということは、「もう滅んでしまっている」という意味のことばで、非常につい良い意味です。この世で最も道徳的な人物であっても、神の聖さを一目見たならば、立ち上がることもできないようなもの、それが神の聖なのです。私たちの罪ある目は、神のこのような聖を見ることが出来ず、そのゆえにこのような恐れも知らないままでいることも少なくありません。モーセでさえ、そうでした。イザヤも、神がご自分を啓示して下さって、初めてこのような経験をしたのです。神とは、このようなお方であることを私たちは知らなければなりません。また、この神の聖にふれて初めて、私たちは本当の自分の姿を知ることが出来るのです。この神の聖を私たちに示すのは、聖書と、聖なる神ご自身であられる聖霊をおいて他にありません。
4、聖なる神の招き
神の聖というものは、罪人にとって、非常に恐ろしいものであり、近づくことのできないものでした。しかし、その神が人間をご自分のもとに引き寄せようとされた歴史が旧約聖書であり、その道が開かれた尊い知らせが新約聖書です。
神は、イスラエルの民に自分を聖別するように命じられました。それは、罪人にとって決して近づくことのできないお方に近づけるどころか、ご自分に属するものとしようという神の好意・愛顧に他なりません。聖別されたならば、ご自分のものではない、滅ぼされるべきすべてのものから区別されて、聖なるものである、ご自分の国に属する者として見てくださるということなのです。神は、「聖」であられると述べました。もし、この聖の基準を少しでも下げるならば、神は神でなくなるのです。それは、自損される神には絶対にあり得ないことです。また、神が聖であれるならば、神の造られるもの、神の所有のものはすべて聖であるはずです。それが一点でも覆るなら、この世界そのものが聖でなくなり、すべての秩序が崩壊することを意味します。今のこの世は、そのような世界ですが、神の哀れみによって、保たれています。本来、神の聖を傷つける存在は滅ぼされなければなりません。この意味で、神はご自分の聖を守ることに熱心であられます。またそれを傷つけるものには、大いなる怒りをもって望まれます。しかし、その神が罪人に招きの手を延べておられるというのは、驚くべきことなのです。
5、罪人の避け所なる神
このようなお方が、道徳的な退廃した街の影響をなお受けているコリントのクリスチャン達を「聖なるものとされた方々」(Ⅰコリ1:2)と呼ぶのです。それは、ひとえにキリストの十字架の贖いの故です。ご自分の聖をわずかでもゆがめることをなさらない方、その聖を汚すものには、大いなる怒りをもって臨まれる方にとって、これはあり得ないことです。神はこの大いなる怒りを、罪なき方、まったく「聖」であられる方に向けられたのです。この方こそ救い主です。
神は近づきがたい方であるとともに、神ご自身が罪人である私たちの避け所でもあると聖書は語ります。ヘブル書4:13では、神の御前にはすべてがさらけ出されていると教えながら、14~16節で、イエス・キリストという大祭司のあわれみを受けて、大胆に神の恵みの御座に近づくように招かれています。近づきがたき聖なる方を、詩篇の作者は、避け所と呼びます。救い主をいただいたキリスト者は、恐るべき聖なる方に対し、キリストの贖いを避け所として、恐れつつも喜んで近づくことが出来ます。そのように近づくことのできる神は、罪の問題を抱えたこの世からの避け所ともなります。
そして、神はこの世のどんなものとも区別して、キリスト者をご自分の聖なる民として見てくださり、世の終わりの裁きの時にも、御怒りから逃れさせてくださるのです。キリスト者は、大祭司アロンが「主への聖なる者」という記章を額につけ、聖なる装束を身につけたように、聖なる者として見てくださるのです。そして、キリスト者自身もこの聖なる方に似せられ、聖められることが目標であり、望みなのです。
人格を持った神
神の人格性,神の本性と信仰生活¦コメントは受け付けていません。
1、神の人格性
聖書に啓示されている神は、人格を持った神であられます。人格とは、知性・心・意志・理性・個性・自意識・自己決定を持ち合わせたご存在です。その中で、人格の本質は、自意識と自己決断です。意識は、動物も持っています。動物もいろいろな感情や、欲望を持ちます。しかし、人間は、自分の感情、欲望、思考を自分自身に結びつけて考えることが出来ます。自己決断については、動物は本能に従って動いていますが、人間は自由な感情を持ち、客観的に自分を捉えて、目的と動機を考えて、自分の内部の声を聞いて決断することが出来ます。神はこの自意識を持っておられ(出エジ3:14、イザ45:5、Ⅰコリ2:10)、自己決断をされる方(ヨブ23:13、ロマ9:11、ヘブ6:17)であります。また、聖書の神は、語り(創1:3等)、見(創11:5等、聞き(詩篇94:9等)、心を痛め、悔い(創世記6:6)、怒り(申命記1:37、Ⅰ列11:9等)、ねたみ(出エジ20:5等)、憐れみ深く(詩111:4)、愛される(エレ31:3)お方であります。
2、人格を持つ神はみこころを持つ
人格の本質は、自意識と自己決断にあると述べました。この自意識と自己決断を表す人格的特徴の一つが意志であります。聖書では、神の意志を「みこころ(原語では神の意志)」と呼んでいます。神は「みこころによりご計画のままをみな実現される方」(エペ1:11)であり、「あなた(神)は万物を創造し、あなたのみこころのゆえに、万物は存在し、また創造された」(黙4:11)と言われています。つまり、この世界に存在するものは、何一つ意味なく、漠然と存在するものはないということです。人格を持った神が、目的を持って、そのように造りたいと願って造られたのであり、存在させようという意志を持っておられるがゆえに、存在しているのです。
このことは、人間の生き方に非常に強い関係を持ってきます。第一に、人間の存在意義を与えます。私たちが、今ここにいるのは、偶然生まれたのでも、偶然ここにいるのでもなく、神が意図を持ってお造りになり、目的をもってここに存在させて下さっているのです。第二に、人間の生き方に大きな意味を与えます。人間に対してみこころを持っておられるということは、深い関心を持っておられるということです。目的にかなった生き方をしているなら喜ばれ、みこころに背く生き方、心を持っているならば、怒り、悲しまれます。神は、ことの善悪を機械的に判断するような、冷たい存在ではありません。期待と願いを持った視線が一人一人にあります。期待というのは、人が何か神に益を与えることができるという意味ではありません。神が、人に対し目的と願いとを持っておられるがゆえに、持つ思いです。これは、人間の真の生き甲斐になります。人間にとっての損得や、能力の有無を超えて、神が私たち一人一人に対してみこころを持っておられるがゆえに、人間には生きている意味があり、神がともにいてくださるなら、私たちはそれを失うことがないのです。
しかし、現実には、この神のみこころを知らず、神の目的とはまったく違った目的のために自分自身を使う生き方をしているのが人間です。イエス様が教えられた喩えには、人間が豊かな財産を神からゆだねられたものとして描かれています。しかし、放蕩息子は、父のものである豊かな財産を、空しい楽しみのために浪費し、使い尽くしてしまいます。そして、すべてを使い果たした息子が、父のもとにあることの幸いを思い出し、悔い改めて帰ってくるのを、遠くから見つける父として、神が描かれています。ここにも、神の人格が表れています。本来の目的からそれて、ぼろぼろになった息子をも、そしていつ帰ってくるかわからないにも関わらず、遠くから見つけるほどに待ち続けるお方であり、悔い改めて帰ってくる者に哀れみ深いお方なのです。これほどに、私たちの人生といのちに関心を持ち、意義を与える存在は他にありません(ルカ15:11~32)。
3、人格を持つ神は交わる事の出来る神
神が人格を持っておられると言うことは、私たち人間と交わる事のできるお方だと言うことです。聖書は、神を見た者は一人もいないと言います。その見えない方と交わるということは不思議なことです。人の考え出す神々には、様々な表情を持つものもありますが、その表情は固定されており、私たちの祈り、問い掛け、行いに答えることができません。しかし、人格を持つお方は、様々な感情を持ち、私たちの心や心から出る行動によって、あるいは祈り、願いに、確実に応答されるお方です。
①人格を持つ神は呼ぶことの出来る神
聖書には、神を呼び求めることが勧められています(Ⅰ歴6:8、詩篇50:15等)。また、悪者の特徴として神を呼び求めないことが挙げられています(詩篇14:4、53:4)。呼ぶという行為は、答えがあることを前提としています。呼び求めるという行為は、その答えに期待していることを表す行為です。もし、神が人格を持っておられなければ、呼び求めることは全く空しいことに過ぎません。空に向かって呼びかけても、空しいだけです。しかし、聖書は「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」(ロマ10:13)と言います。もし、神が自然や人間と同一であったり、単なる力やエネルギーであったりするならば、私たちは神を呼び求めることはできません。しかし、神が人格をもっておられるゆえに、私たちはいつでも神を呼び求めることが出来、それに答えて下さることを期待できるのです。
②人格を持つ神は応答される
聖書の教える神は、人間のあらゆる心の動き、行いに対して、応答されるお方です。不品行と暴虐に満ちたソドムとゴモラの住民の叫びを神は聞き、それを見に降りて来られました(創世記18:20,21)。そのことを神は、アブラハムに知らせ、アブラハムはソドムとゴモラに住んでいたロトのために取りなして、「正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか(18:25)」と言います。これは、神がどのような判断基準で、どのような行動を取られる方であるかという知識と、信頼に基づいた祈りです。そして、「もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう(18:26)」と主は答えられるのです。実際には、正しい者は10人にも満たず、ソドムとゴモラは火と硫黄で焼かれます。しかし、ロトとその娘達を神は救い出して下さいました。聖書は、「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。(ガラ6:7,8)」、「神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです」(ヘブ11:6)と教えます。
神は、自動的に願いをかなえるような自動販売機や、コンピュータのような存在ではないのです。呼び求める者に、愛と憐れみと慈しみをもって答え、時には怒り、悲しみをもって私たちに臨まれ、具体的に関わられる神なのです。
③人格を持つ神は生ける神
聖書は、このように呼び求めることができ、私たちの言動や祈りに答えられる生ける神を教えるのです。そして、私たちは唯一の道であり、真理であり、いのちであるイエス・キリストを信じることによって、この生ける神と豊かに交わることが許されるのです。ここには、単なる観念的な神や、単なる規範に過ぎない道徳律とはまったく違った生ける神がおられます。キリスト者は、この神に信頼し、この神の答えを体験し、この神の愛と憐れみに満ちたお取り扱いの中に生きるのです。これこそ、真に生きる道です。神が永遠に生きておられるように、人格を持った生ける神との交わりを持つ人間も、豊かにいのちを持ち、豊かに生きるのです。
4、人格を持った神は人間の希望
創世記1:26に、人は神のかたちに似せて造られたとあります。人間に人格があるのは、人間を造られた神に人格があるからであり、私たちの人格は、人が神に似せて造られたがゆえに持つことがゆるされている宝でもあります。ところが、アダムとエバが神に罪を犯し、人間に罪が入ったがゆえに、この人格もゆがんでしまいました。この地上に、完全な人格を持った人は、一人もいません。
学校教育の目標は、人格の完成と言います。人間にとって人格の完成とは、神に似せて造られた、その人格に立ち帰り、回復されることです。その意味で神の人格は、人間の理想であり、ゴールであります。その人格は、究極的にはイエス・キリストという私たちと同じ肉体を持つ御子を通して表され、聖書と聖霊の働きによって私たちに伝えられています。キリスト者の救いと希望は、このキリストの人格に似る事であります。神が卓越した完全な人格を持っておられる事は、こうして私たち人間の希望となるのです。
まことの神以外にも、人間は人格を持つ神々を作り得るかも知れません。それは、人間自身が人格を持っているがゆえに、人格を持つ存在をイメージできるからです。その点で、最近は擬似的に人格を持つコンピュータやロボットが作られつつあります。今後、これらのものはますます技術が進歩し、人格的な特徴を増していくかも知れません。また、人間や社会にとっての存在感も増していくかも知れません。しかし、それらはあくまでも人間の持つ有限な人格の中で似せられるもの、考え出されるものであって人間を超えるものではあり得ません。しかし、まことの神は人間の人格の造り主であり、また源であります。人が神を考え出したのではなく、人間が神に似せて造られたのです。人間が、人間の造り出した人格と交わりを持つならば、その交わりに頼る割合に応じて、それらに似たものとなるでしょう(詩115:4~8)。しかし、人間が自分の人格の造り主なるまことの神を求め、その神と交わることができるならば、その神に信頼する割合に応じて、その神に似せられた人格へと引き上げられるのです(Ⅱコリ3:16~18)。
5、人格を持つ神は恵みの神である
もし、神が人格を持っておられないのであれば、私たちの祈りや、行為に、自動的に、機械的に答えられるかも知れません。しかし、もしそうであるならば、自存される神は、人間を造り、生かし、良い物をお与えにならなければならない理由をまったく持たないのです。まして、神を神としてあがめない、罪人である人間にはなおさらのことです。ところが、神は人をお造りになり、生かし、良い人(罪人でないという意味ではない)にも、悪い人にも太陽を昇らせ、雨を降らせて下さるのです(マタ5:45)。その上、罪人である私たちの罪の身代わりに、罪なき御子のいのちさえお与えになられたのです。これは、まったくの神の憐れみであり、好意であり、恵みであります。神の一つ一つのお取り扱いの中に、神の私たちに対する願い、思い、意志が込められているのです。
唯一なる神
神の唯一性,神の本性と信仰生活¦コメントは受け付けていません。
1、神の唯一性
神の唯一性とは、神が他の存在と比べられない、遙かに超越した存在であるという側面と、神のようなお方、その力においても、ご性質においても、お働きにおいても、他の存在にはまったくない、なぞらえることのできない、独特のご存在であるという二つの面があります。聖書の神は、一貫して唯一の神であります。それは、聖書の神ご自身の主張であり、また、聖書の教える神は、唯一でしかあり得ないからです。聖書の神は、比類なきお方です。人間は、生まれながらにして神を思う宗教心が与えられています。しかし、それが罪のゆえに歪んでいるために、決して真の神にたどり着くことができず、様々な神々、様々な宗教を造り出してしまいました。しかし、まことの神がどのようなお方なのかを真に求めていくならば、神はおひとりしかおられないはずです。イザヤ44~46章は、神ご自身が「わたしのほかに神はいない」と主張されていく箇所です。このイザヤ書を中心にしながら、神がおひとりであるということが、私たちとどう関わっているのか学びます。
2、比類なき神はおひとりしかおられない
イザヤ44~46章は、神ご自身が大胆に、ほかにわたしのような神がいるのかどうかを、読者に問うていきます。多くの人達が神と思うもの、様々な宗教の言う神々が、本当に神としての性質を持っているのか。そして、本当に神であるならば、どのような性質を持つものなのかを教えていきます。
①永遠なる神はほかにいない
44:6~8で神は、「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。わたしが永遠の民を起こしたときから、だれが、わたしのように宣言して、これを告げることができたか。これをわたしの前で並べたててみよ。彼らに未来の事、来たるべき事を告げさせてみよ。恐れるな、おののくな。わたしが、もう古くからあなたに聞かせ、告げてきたではないか。あなたがたはわたしの証人。わたしのほかに神があろうか。ほかに岩はない。わたしは知らない。」と語られます。ここには、神の永遠性が述べられています。「初めであり」「終わりである」方。始まりもなく、終わりもなく、常に永遠に存在される、それこそが神だと語ります。そして、その他の神と言われるものが、このような性質を持っているのかどうかと問い掛けます。それだけでなく、ご自分が永遠なる神である証拠も示します。このイザヤ書は、ユダ王国が、バビロンに捕囚される前に預言されたお言葉です。捕囚される以前に、民の罪のために、バビロンに捕囚されることと、70年後に回復されることを告げていきます。45章では、ペルシャの王クロスによって帰還の命令が出され、神殿の再建までされることを告げていきます。まだ、自分たちにそのような裁きが下ることさえ信じていない民に語っていきます。そのことによって、ご自分が過去も、未来もすべて知り、支配しておられることを読者に示していきます。
②万物を創造された神はほかにはい
44:24~28では、次のように語られます。
あなたを贖い、あなたを母の胎内にいる時から形造った方、主はこう仰せられる。「わたしは万物を造った主だ。わたしはひとりで天を張り延ばし、ただ、わたしだけで、地を押し広げた。わたしは自慢する者らのしるしを破り、占い師を狂わせ、知恵ある者を退けて、その知識を愚かにする。わたしは、わたしのしもべのことばを成就させ、わたしの使者たちの計画を成し遂げさせる。エルサレムに向かっては、『人が住むようになる。』と言い、ユダの町々に向かっては、『町々は再建され、その廃墟はわたしが復興させる。』と言う。
ここには、まことの神は万物の創造者であることを告げます。それは、私たち自身が自意識を持つ前に、また、人目に触れないときから創造した方であると教えられます。胎児というのは、人がまだ善悪を学ぶ前です。どんな性格も、才能も、行いも現れる前です。その段階においてすでにお造りになった神は、生まれてからどのような権力、能力、性格を持とうとも、ご自分の御手の下にあることを教えられます。その証拠として、バビロン、ペルシャという世界帝国の皇帝でさえ、例外でないことを示していきます。ペルシャはもちろんバビロンでさえ、世界を手中に収める前に、それらの国が興ること、そして、その支配者たちがどのように振る舞うかを告げていきます。それは、まことの神を知らず、信じない、この世の最高権力者であっても、その権力は、神が与えられたものであり、彼らが生まれる前から定められていたことを教えるのです。このような神が他にあるかと問いかけます。
神は、創造のもう一側面を教えられます。それは、光や、平和を造られただけでなく、やみや、わざわいをも創造されたと言うことです(45:7)。イザヤ書で告げられる預言は、人が望むような平和や希望だけでなく、むしろわざわい、さばきなど、悲惨な内容が大胆に告げられていきます。人間の考える神々は、何を造り出すかについて、人間の思想に押し込められています。光だけを造る神があれば、やみだけを造る神、さまざまな神々を考え出していきます。しかし、聖書の神は、ありとあらゆるもの創造されたことを告げます。それは、人間の思想を遙かに超えたご存在です。幸いを造る神が、なぜわざわいをも造られるのか、人間には想像できません。神は、わざわいにも目的を持っておられます。私たちが、それを知らなくてもです。しかし、神は正義の神であって、罪を造る方、罪を犯させる方ではありません。罪人もサタンも神のお許しがなければ、何もできません。そのような神は、他におられないのです。
3、人を救うことの出来るお方はほかにはいない
神がイザヤを通してこれらのことを告げていく最終的な目的は、45:21以降に語られていきます。それは、この神だけが「救い主」(45:21)であり、人類をその罪から救うことのできる唯一のお方であるということです。
今まで書かれてきたような、永遠なる神、すべての人を創造された神であるならば、それは特定の国や地域、民族に限られないお方です。この神は、イスラエルもイスラエル以外の国民も関係なく、あるいは信じる者にも信じない者にも、知っている者にも、知らない者にも、ご自分こそがまことの神であると主張できる、神であられるのです。この神は、ご自分を知らない、信じていない、未来の存在であるクロス王を名指しで呼び、肩書きを与え、力を帯びさせて、世界帝国の支配者の座につかせられました。しかも、それはイスラエルのためでした。神は、45:22で、イスラエルのユダ王国に語りかけながら、イスラエルとバビロン、ペルシャを通してなされる御業を通して、すべての者に、ご自分こそ神であることを示し「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ」と招かれるのです。
そして、神が唯一であられるのは、救いの方法についても一つであることを示します。ロマ3:28~30には次のようにあります。
人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。
ここには、今まで述べてきたように、神が唯一なら、すべての人にとっても神であることを教えます。イザヤを通して神が語られたのは、どの国の宗教が優れているとか、良いとか、悪いとかではありませんでした。そのメッセージの中心は、まことの神は、どのような方であるか。神である方を、本来あるべき姿よりも、ずっと、ずっと小さく、あるいはゆがめていはしないかということでした。このメッセージは、すべての国の人々の当てはまることです。神が求めておられることは、神を神として知り、崇め、信じることなのです。そのように神を神として、つまり永遠で、全知・全能、創造主にして万物の支配者である神として覚えていくならば、神は決して複数ではあり得ません。必然的に、神はおひとりであることを知るのです。神をまことの神として求めていくことこそ、人間にとって真に必要なことなのです。
そして、救いの道についても、あらゆる国民にとって、まったく同じであることを告げるのです。イスラエルは、神の選びの民であり、特別に神の啓示と預言を知ることを許され、神の特別なご介入と守りを経験してきた民です。異邦人は、真の神を知らず、聖書とはまったく無関係の歩みをして来た民で、中には非常に不道徳な国もありました。それであっても、救いの方法はまったく変わらないというのです。
神が唯一であるならば、その基準も一つということです。そこには、不公平はまったくありません(ロマ3:22)。すべての人が同じ神に造られ、同じ神の前に責任を持ち、やがて同じ神の御前に立つのです。しかし、すべての人が同じく、この神の御前に罪人であり、裁かれて当然の者であり、それでありながら、恵みによって救われるという道についてもまったく同じなのです。
ここには、真の平和があり、秩序があります。人は、この唯一の神との平和を持つことによって初めて、一つとなり、互いの平和を持つことが出来るのです。
4、神が唯一であるから献身の対象となる
申命記6:4で、「主は私たちの神。主はただひとりである」と宣言した後、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という命令が続きます。聖書の神が「私たちの神」であり「ただひとりである」ということを根拠として、あなたのすべてをつくして、この神を愛せよという命令があるのです。対象がいくつもあれば心が分かれます。しかし、真に礼拝すべき、真に信頼すべきお方が唯一であるからこそ、その方に私たちのすべてを集中することが出来、また集中して良いのです。そこには、中途半端さがありません。だからこそ、このお方がどのようなお方であるかが重要となります。私たちが抱く神観が間違ったものであれば大変なことになります。しかし、正しければ、これほど確かなものはなく、これほど力強く、有意義な人生はないのです。本当に私たちが唯一の真の神を正しく知るならば、迷いや、ゆらぎから守られます。