金沢聖書バプテスト教会は、神の愛とキリストの贖いと聖霊の導きによって真の神様を礼拝する者の集まりです。あなたを心より歓迎します

御霊の実について

御霊の実について 4

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御霊の実について 4







 御霊の実を、クリスチャンの心のうちに湧いてくる思いについて〈愛,喜び,平安〉と隣人に対しての思いについて〈寛容,親切,善意〉、また自己吟味の内容について〈誠実,柔和,自制〉と、区別して考えることがよいと思われます。ですから、御霊の実についてパウロが列挙したのは、自分と神様、自分と他の人との関り方、自己吟味のためであって、決してこれをもって他の人の信仰成長を判断する際のチェックリストにする為ではないのです。パウロは、クリスチャン生活というものが、「肉の行ない」に対して全く別の原理(御霊の原理)によることを述べているのです。ですから御霊の実は、確かにクリスチャンの内に宿られる御霊の内的働きによる実ですが、それは数量的に測定できないし、してはならないのです。



 また御霊の実は、より良い人間性を実につけるための手段であると理解されたりしてはなりません。もしそうするならば、救いが神の御前に救われるに価する為に人が好ましいとする人間性をどれだけ積んだかによって、決まる事になってしまいます。これは人間が功績を如何に積み、修行したかを判断するものとなってしまいます。それでは、一方的な恵みによる救いをいう福音理解が変わってしまいます。そして、そこには、新しい律法主義が芽生えるだけです。確かに人間的成長を願う熱心さは、ある意味で大切だろうと思います。それを否定するものではありません。



 しかしパウロは、人間によって習得されるところの人間性ではなく、御霊によって歩むことによって結ぶ、御霊の実を勧めているのです。御霊の実は、人間が栄光を得る為ではなく、神がご自身の栄光を現す為に、実際生活に結びついて結ばせてくださるものなのです。



 従って、御霊の実を結ぶことに関連して、次の点を知っておく事が大切です。



①自分自身の罪深い性質をますます知っていくようになると言う事です。内なる御霊の働きによって、クリスチャンは、信仰に成長すればするほど、安住するどころか、神の御前でいかに自分が、罪と咎とに満ちているかを知らされます。御霊の実は、私たちの人格形成において達成感と誇りを与えません。



②罪から離れる事とキリストの義とを熱心に求めるさせるという事です。クリスチャンは、神のみことばと御霊の働きによって、自分の罪を自覚させられ、罪が取り除かれ、罪から離れることができる様に願います。そして、ただキリストの義だけを唯一の救いのよりどころとします。ですから私たちは、自分自身の中にクリスチャンであるという資格を蓄える努力を求めるべきです。 

③クリスチャン生活は、聖霊の業により頼む生活という事です。全ての点において、祈り求めるものとなるという事です。そしてキリスト者が求めるべきことは、人間相互の優劣の比較で優位に立つ事ではありません。全てのクリスチャンが、祈り求めることは、キリストに似る者となることです。



④今与えられている恵みを覚えて感謝し、終末の完成を望み見るものとなるという事です。私たちは、この世に生きている限り、この世が罪の束縛の下にあるために、戦いが絶えないでしょう。しかしそのような中で、キリスト者を支えるのは、全てのものが新しくされ、完全に贖われるという確かなお約束です。

御霊の実について 3

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御霊の実について 3







 新約聖書は、「喜び」と言う言葉と心の状態は、救われる人が起こされたときに用いられている場合が多いのです。(ルカ十五章七)「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです」と言っております。またパウロは、(ピリピ二章十七節「たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。」)と言って、神の栄光を見ることを喜ぶのです。従って、聖書に表されている「喜び」の状態とは、たとえこの世において人が求めるもの全てを手にしたとしても、それを「喜び」とは言わないし、「喜ぶ」とは言わないのです。



 また、パウロは、御霊の実である「喜び」は、ロマ書十四章十七節において、「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和(=平安)と聖霊による喜びだからです」と語り、御霊の実としての喜びが「義」と「平和=(平安)」とが深い関係にあることを述べております。



 本来クリスチャンは、「義」とは何かを知っている者たちのことでもあります。また「義」にかなう生き方をすべきであるということをわきまえている者たちでもあります。そこでクリスチャンの現実の問題は、よい事に賛成しつつ、悪い事をしてしまう事です。そこに傷みがあり、苦しみがあります(しかし最近はそのような傷みや苦しみを感じる事さえ愚かな事、取るに足りないこととする風潮があります)。しかし、御霊をその心のうちに宿しているクリスチャンは、諦め、居直ってはならないのです。クリスチャンには、新しい力が与えられている事を思い出して欲しいのです。その力とは、「義」なる生活をさせてくださるという御霊の働きのことです。自分の力で生きようとしていた間は決して実行できなかった「義」ですが、今感謝すべき事に、内なる神の御霊の故に「義」なる生活を祝福に満ちた事実としてくださるのです。この故にパウロは、このロマ書において「平和(=平安)」と聖霊による「喜び」とが関連している事を語るのです。



 一方クリスチャンにとって「平和(=平安)」は、単なる消極的な事ではありません。聖書では「平和(=平安)」であるということが、積極的なこととしてとらえられています。この「平和(=平安)」は、神と敵対関係にあった私たち人間が、和解することができた事を意味しているからです。つまり罪の故の刑罰が、イエス・キリストの贖いの故に赦され、神との平和を持つ事ができたという事です。この地上生活においてクリスチャンと神の間を妨げるものはなにもないのです。誰も神が赦したものを罪に定める事はできないのです。この平和(平安)は、聖霊によるものです。ですからパウロは、「聖霊による喜び」と呼んだのです。聖書には驚くほど「喜び」及びその派生語が頻繁に使われております。確かに、この地上生活だけを見ているならば喜べるような事はあまりないかもしれません。しかし、聖霊なる神が、それを超越して私たちの心の中に、消え去る事のない、深い喜びを与えて下さるのです。

御霊の実について 2

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御霊の実について 2







 パウロは、御霊の実として九つ上げます。これらは、人との交わりにおいて現されるものです。つまり(自分にとって都合の)良い人には現されるが、嫌いな人には現せなくなるというようなものでもなく、また一つでも現せればよい方だという事もないのです。確かにこの[実]が[御霊の]ものでないならば、私たちのうちには決して実現する事はないでしょう。



 またパウロは、「御霊の実」といわれているところの「実]という言葉には単数形を使います。この言葉を単数形で使っているには訳があります。パウロは、九つの[御霊の実]という神から与えられるクリスチャンの資質を一つのまとまったものと考えているのです。パウロは、クリスチャンは誰でも、これらの「御霊の実]のすべてを持つべきだと言っているのです。つまりあるクリスチャンには[御霊の実]である[愛]はあるが、[喜び]がないとか、他の人には[喜び]はあるが、[平安]が無い、と言うようなものではないと言うのです。更に、自分にとって比較的自分の身に付けやすいと思われるものを、一つでも持っていればそれでよいと言うものでもないのです。すべてのクリスチャンは、これらすべての[御霊の実]の性質を現すべきなのです。神の力そのものがクリスチャンに働かれるので、生まれながらの人間には、結ぶことのできない[御霊の実]を結ぶ事ができるのです。但し、肉に従わないで御霊に導かれて歩もうと決意しなければなりません。



 そこで、御霊が結ばせてくださる実がどれほど素晴らしいものであるか、聖書より教えられ、それらを慕い求める心が与えられる事を願うのです。



 「御霊の実」としてまず最初に掲げられているのが[愛]です。パウロは、[御霊の愛によって](ロマ一五章三〇)、[愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら](ピリピ二章一)、[御霊によるあなたがたの愛](コロサイ一章八)と語って、クリスチャンの交わりと祈りには、御霊と愛が深く結びついている事を教えます。御霊によって注がれる神の愛なしには、クリスチャンの交わりはないと言います。



 キリスト教の愛についての教えは、他に比べる事もまた似たものもありません。何故ならその愛は、愛される者に愛される資格があるかどうかに、全く関係なく注がれる愛だからです。神の御子イエスは、罪人である私たち人間のために、十字架上に罪の全く無いご自身を、身代わりとして差し出された方です(ロマ五・五)。つまりイエスは、何のとりえもなく、かえって神に反逆している者の為に死なれたのです。そのような状態の私たちの現実の中に「私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛とが現われた」のです。それによって私たち罪人に、愛が分かったのです(Ⅰヨハネ四章八〜十一)。このことから、神ご自身の中に一方的に愛する(条件付きでない)愛をもっておられることがわかります。ですから、私たちがこの[御霊の実]である[愛]を身につけるとは、神にすべての判断(私の価値観や気持ち)を明渡して、みことばの教えられている事に従う事です。そうすれば、私たちは神の愛の力によって造りかえられるのです。そうして、条件付きでない愛を持って他の人々にキリストの弟子である事を証ししようではありませんか。これは、自分の中に何らかの可能性が少しでもあるからできる、と言うものではありません。一方的な聖霊なる神の御業なのです。

御霊の実について 1

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御霊の実について 1










 聖霊なる神様が主イエス様の約束通り、十二弟子に降られた事を覚えるペンテコステ(聖霊降臨)は2005年は、5月15日です。そこで冒頭の御霊の実について考えます。



 まずこの御霊の実について語る前にパウロは、人間の姿を指して「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。」と語ります。パウロは、堕落している人間の内には神に喜ばれる善を行う事ができないと指摘してします。ここでパウロは、クリスチャンも未信者と同じ人間性をもっているので、神に喜ばれる善の基準に従って歩もうとする時、必ず聖霊なる神の導きをいただく必要があると言います。ですからクリスチャンは、正義を行うことができたとき喜びますが、自分の努力の結果であると自惚れて、自分を誇ったりしません。彼は、肉の思いが神の御霊の命令に従いたくないという様々な欲望に支配されているので、どのような善も行う力がないことを知っているのです。ですからクリスチャンは、神の喜ばれる正義を行う事ができた事を喜ぶと同時に、内に住んでおられる聖霊なる神を讃美するのです。



 また御霊なる神は、クリスチャンの心の中であろうと、人の中にある隠れた心の邪悪な部分を暴露します。そして全ての人が、エペソ人への手紙でパウロが言うところの「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」(二章三)と告白せざるをえないのです。この「自分の肉の中に生き」るとは、キリストから離れている人の場合に(クリスチャンであろうと)様々な欲望が野放しになっている状態のことを言います。そして人は、「肉と心の望むままを行な」うとき、宗教的な色彩を帯びた場合に偶像崇拝者となります。



 このように肉なる者の最大の特徴は、神の御霊への服従ではなく、自分の人間としての罪の性質にがんじがらめに支配されていることです。従ってイエスの救いを頂く前の人間は、御霊の実を結ぶ事など決してできない事が分かります。



 しかし今は、キリストの御霊に導かれる神の子として、御霊の実を結ぶ時に、なにものにも妨げられる事がないのです。ですからパウロは言います。「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」と。私たちは、御霊の実を結ぶために、御霊に全てを委ねて歩みましょう。私たちは、御霊の実を結ぶ事について失望しなくてよいのです。私たちは、御霊の実を結ぶ事ができるのです。私の努力によってではなく、一方的な神の恵みによる助けと導きによって実現できるのです。ですから私たちに大切な事は、御霊に全てを明け渡す決心をして、実行させてくださいとの願いをもって、神の前に出ることです。


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