家族共同体の危機とその癒し 聖書と精神医療より
5.神は家族共同体の救いをめざす
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5.神は家族共同体の救いをめざす
著者はクリスチャン医師として家族の危機を乗り越えることについて、五つほど上げて説明しております。以下その内容を抜粋してお知らせいたします。
【機能不全家族と言う言葉がある。父や母が子を責め、夫婦同士が責任を転嫁しあったり、お互いに共依存状態に陥ったりする。又、親子間の基本的信頼関係が失われてしまう。家族の中に、非行や心の病気、依存症などと言った既往症(キオウショウ)を持つ人が存在することも、こうした機能不全家族の特徴の一つである。家族は一つのシステムだ。誰か一人の”病理“を取り上げ、悪者を作り上げ、その人を批難したり排除したからといって、究極的な解釈には至らない。家族危機を乗り越える為には、家族共同体全体が救済されると言う包括的、統合的、全体的な視点が必要とされる。このような考え方を指示する聖書的背景について触れておきたい。
この点について示唆的なのは、まず第一に、アブラハムがソドムの救いについて神との間で交わした問答である。勿論ここでは、イスラエル民族全体の救済という事が問題になっているが、民族や、国家、社会を構成する最小単位は家族であるから、家族共同体の救済というものを考える際にも、次の記事は大変参考になる。主は、「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。」(創十八:二〇)と言われた。これに対してアブラハムは、「もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。」(創十八:二四)と問う。これに対して主は「もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」(創十八:二六)と答えられる。アブラハムは、神との問答を繰り返す中で、「正しい者」の数を段々と切り下げてゆき、「もしやそこに十人見つかるかもしれません。」と主に迫る。そうすると、主は、「滅ぼすまい。その十人のために。」(創十八:三二)と述べられる。つまり、例え、どんなに少数であっても、ソドムの為に、とりなす正しい者がいれば、ソドムの町は滅ぼさないと神は言われる。
この箇所は、私たちに個と共同体の中の“悪者“を探し出したり、作り出すのではなく、家族構成員の健康な側面に焦点を当てることなのである。
4.聖書と精神医療2000年夏号より
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4.聖書と精神医療2000年夏号より
□家族危機の現実と聖書 旧約聖書を読むと親子関係や夫婦関係について考えさせられる記事が少なくない。その中の二、三、の例をあげてみよう。
祭司エリの息子は、ならず者で主を知らなかった(1サム二章十二節)
サムエルの二人の息子ヨエルとアビヤも父の道を歩まず不正な利益を求め裁きを曲げた(1サム八章十三節)。
モーセの兄アロンの2人の息子たちも、神の御心を行わず、父を悲しませた(レビ十章一〜二)
この他にもダビデは、息子アブサロムに反逆され、命を狙われた。またヨブの妻は、ヨブが財産を失い、子どもを失い、病気にかかった時、神を呪って死になさいと述べている。祭司エリやサムエルやアロンやダビデやヨブは、旧約聖書の中でも神に選ばれたリーダーであった。この世の一般的常識に従えば、その子供や妻は、模範的な人物であらねばならないはずだ。しかし何故イスラエルの偉大なリーダーの身内にこのような人が現れたのか。この問題に対する答えを解く鍵はどこにあるのか。これまでの家族精神医学や家族心理学の治療理論によれば、治療者は家族構成員の中の一人が心の病にかかったり、反社会的行動を引き起こしたりした場合、周囲の人の考え方や思考方法に原因があるとされ、その考え方を修正する事に力を注いできた。つまり、家族の中から“悪者”が選ばれ、その人に焦点を絞って勧告や忠告を行うと言う形で“治療”が勧められた。このような勧善懲悪的な発想によると、例えば、子どもや妻が心の病にかかったり、反社会的行動に走ったりするのは、「親」とりわけ家族の代表者である父や妻がいけなかったからだと言う論理になる。このように考えてくると、祭司エリもサムエルもアロンもダビデもヨブも“欠陥を持った”父親という事になる。その他に、例えば神に選らばれた親でも、人間として不完全な存在であって神は、傲慢にならないように教育的配慮からこのような不肖の息子や妻を与えられたと言う見方である。
前者は、因果論敵思考に基づく家族理論であり、後者は、目的論的思考による家族病理論だと思う。我々は、家族の病理を考える場合、後者の立場をとる。神は、このような家族の悲劇を通して、人類の罪がどんなに深く大きく重いものであるか、それによって父なる神は、どんなに心を痛めておられるか、また、神と人類との距離が如何に遠いものであるか、更に、神と人類のとりなしがどんなに大切であるかを悟らせる為に、こうした試練を与えられたと我々は考える。おそらくこうした旧約の偉人たちは、身内の者(子や妻)の罪ゆえに大きく傷ついたであろう。また、子どもや妻も自らの罪に深く傷つき苦しんだに違いない。」(平山正実著より)
しかし私は、安易に目的論的理解においても納得してしまってよいのだろうかと思うのです。一つは、このような解釈が本当に家族を慰め解決への一歩となるのだろうかと考えます。二つ目は、神の御心を自分流に勝手に解釈していないだろうかと言う事です。単に目的論的会社では限界があると考える。更に、警告や戒め、訓戒としての位置付けしか障がい者には与えられないと言う、否定的な存在でしかないのかと言う事である。しかし、私も“悪者探し”には異論を唱える者です。
3.スピリチュアルケアの重要性
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3.スピリチュアルケアの重要性
赦しのない因果論的発想に基づく援助は、病んでいる者とその家族を更に苦しめ、傷つけることになります。そこで平山氏は、これまでの原因探しの支援方法ではなく、スピリチュアルケアと言うこれまでとは異なる方法を導入することを提案します。平山氏は次のように説明いたします。「このような治療方法(スピリチュアルケア)においては家族の中の“悪者探し”をするのではなく、家族の中に降りかかってきた災禍の目的や意味について、超越的・信仰的な観点から考え直そうとする治療方針を立てる中で、このような治療方法を家族の一人一人に対して試みようとする時、身体的、精神的、社会的援助を行う際の理論的根拠である因果論的思考を、目的論的意味論的思考へと変える必要があり、その時援助者は、基本的なパラダイム(認識のための枠組み)の変換を迫られる]]事だと提案します。著者が、家族療法の中にこのようなスピリチュアルケアの導入を考えた理由を二つ挙げます。
第一は、[[第四回日本伝道会議共生委員会アンケート調査報告書」(中島秀一委員長、二千年六月二九日)が示す結果によります。ここで行われたアンケート結果によると(一九九九年三月郵送により千九百教会に配布、回収三九三教会、回収率二一.三%)、過去五年間に九〇%の教会が障害者と出会い、受け入れている事実があるそうです。その障害者の中で最も教会出席率が高いのが、精神障がい者(六七%)だそうです。そして教会が最後の支援者となって、平山氏のところに教会から紹介されてくる場合が実に多いそうです。患者の家族は、いろいろな施設や病院を訪ね歩くのですが、どれも納得がいかず、最後に教会を尋ね平山氏の病院へ来られる場合が多いそうです。
第二は、2000年5月に起こった西武バスジャック事件だそうです。この少年について三人の精神科医がそれぞれに違った判断をしています。一人は、精神分裂病(統合失調症)だからすぐに、そして長期の入院が必要であるとし、もう一人の直接あって簡易鑑定した医師は、短期間では何も判断できないとしています。また別の精神科医で評論家は、全く正常であって、入院させるべきではないと主張したのでした。
このように最近では、精神鑑定によって診断を下しにくいケースが実に多く出てきているというのです。それは、今までの因果論的な思考が通用しないということだと言います。この犯人の場合、日本精神病院協会の仙波恒男会長によれば、精神病ではなく、行為障害であって精神医療の対象からはずすべきだとしています。
このように多くの判断の違いがある中で、本人とその家族は、心の専門家である精神科医やケースワーカー、看護士、保健士、臨床心理士、教師などをさしおいて、あるいはこうした専門家の対応では問題解決せず、多くの精神障がい者が教会の門を叩くという思い現実があるので、著者たちは、このような事例に対して、スピリチュアルケアが重要であると強調しておられるのです。
2.家族の癒しをどうとらえるか
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2.家族の癒しをどうとらえるか
家族の癒しというものを考えるにあたって、癒しの目的である健康とはどのような状態を指すのかを考えてみたい。
世界保健機構(WHO)によれば、健康とは、身体的、精神的、社会的に完全に良い状態であり、常に病気や虚弱がないことではないと定義さえしている。このことは健康が維持されるためには、身体的、精神的、社会的な援助が必要であることを意味している。
身体的援助とは、具体的に言うと、痛みや、食欲不振、嘔吐、謳気、便秘、下痢、呼吸困難、排尿困難、尿失禁、痒みなど様々な身体的苦痛に対して、適切な処置がとられることを指す。 精神的とは、不安、恐怖、うつ状態、幻覚、妄想、不眠、意識障害など、精神的苦痛に対して対応することである。 社会的援助とは、患者の経済的問題や、家庭、学校、職場などに生じた様々な葛藤に対して、いろいろな問題解決の方法を呈示する事である。
つまりWHOの定義によれば、健康とは患者に対して、このような身体的、精神的、社会的ニード(必要性)に答えてゆくだけでなくスピリチュアル・ニードにも配慮してゆくべきであると言い始めている。
スピリットは、[自分を超越したもの」と自分の存在の根底をなすものとの二つの要素を含んで用いられるといわれる。
前者は、聖なるものに調和する自覚が生まれてくること、つまり、神が人間の罪を赦し、愛していたもうと言う揺るぎない和解の確信を与えられることであり、後者は、自分の人生が意味と目的のあるものであるという感じが与えられることである。以上のことから明らかなように、人間が健康であるためには、身体的、精神的、社会的援助(ケア)が必要であるだけでなく、スピリチュアルケアが大切であって、これらの諸々の援助が、全体的、包括的になされることによってはじめて真の意味での健康が守られるのである。
ある原因があって、その結果様々な不健康な状態が生じたのであるから、その原因を除去しなければならないとする因果論的発想に基づいて行われる。然るに、このような考え方を家族療法に応用しようとすると、家族構成員の誰かを悪者とみなし、その人物の責任を追及しなければならなくなる。大抵は、母親が最初にやり玉に挙げられる。母親はそうでなくても、自分の育て方が悪かったのではないかと罪責的になっているのに、こうした因果論的発想に基づく援助者の対応によって、一層傷つくことになる。
私は、いろいろな苦しみの中で、時には、原因を追求する必要が必要な場合があることを認めます。しかしその原因に対して、必ず神の赦し(悔い改める時たとえどのような罪=原因であろうと)があることを宣言しなければなりません。まず自分のすべての罪が赦されていることを明確に自覚できることは、自己を確立し認識する上で大きな力となります。この救いと赦しなくして、後者の自分の存在の根底をなすものを確立することはできないのです。また、関る全ての人が、神の赦しの中におかれていることを互いに確認し合い、互いを受け入れ合う事を自覚する事が、何よりも大切な事と考えます。
1.家族内での悪者探しについての問題
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1.家族内での悪者探しについての問題
「現代の日本では、家族機能が崩壊しつつあるという指摘が多い。事実、不登校者数や、児童虐待数の増加、十代女子の人工妊娠中絶数の増加、家族内暴力の増加、青少年の凶悪犯罪の増加、夫婦間暴力や育児ノイローゼ患者の増加、中高年の離婚、壮年男子のリストラや過労による自殺者の増加、老人(今日ではホームレス者への暴力、幼児への性的ないたずら、なども上げられる)虐待の増加、などといった事実が毎日のように新聞で報道されている。
そして、その多くが、家庭内に原因があると論評する識者が多い。そして、「機能不全家族」「仮面夫婦」「家庭内離婚」「アダルトチュルドレン(よい子であり続ける子供たち)」といったキーワードが市民権を獲得しつつある。こうした病理的な家族がどうして出来上がったのか、その原因探しが、これまた有識者の間ではじまっている。曰く、子どもには過剰な期待を持ち、教育に熱心な親が無理に勉強ばかりさせるからだ。」「父親が仕事に忙しく、子どもと十分に接する時間がなかったからだ」「母親が未成熟で過保護、過干渉だった」「夫婦の対話時間が少ない」「親の子どもに対する躾がなっていない」等等。
確かにいわゆる、病理的な家族に対する識者のこうした批判は、それなりに説得力を持っている。しかし、家庭内のこうした、悪者探しの結果、血祭りに上がった親や子供たちが、今悲鳴を上げ始めている。これまで、教育者やカウンセラーや精神科医がこのような悪者探し、原因探し、によって問題解決できると考えてきた。しかし、本稿では、それだけでよいのかと問い掛けたい。我々はかつて、心の癒しの為には、因果論から目的論へ思考の転換を図る必要があるという事を指摘した事がある。やんだ家族を癒すためには、因果論とは別の発想が必要なのではないか。従来の家族療法でよく用いられる家族の中に悪者を探し回る因果論的な味方とは異なったパラダイム(認識の為の枠組み)を導入する事によって病んだ家族を癒す可能性を模索する事が、本稿の目的である。」