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5、油注ぎとしての聖霊の内住

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 ヨハネはヨハネの手紙第一2章において、クリスチャンは注ぎの油を持っていると言います。2:20では、にせ教師の教えに惑わされず、イエスを人となった神の子と信じる、ヨハネの手紙の読者すべてに「あなたがたには聖なる方からの注ぎの油があるので、だれでも知識を持っています」と言っています。つまり真の信者すべては「注ぎの油」を持っていると言っています。このことは、パウロもⅡコリント1:21で、「私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油を注がれた方は神です」と言っています。ここでもパウロは、使徒であるパウロもコリントのクリスチャンも区別なく「油を注がれた」と言っています。そして、次の22節では、「神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました」と言っていて、神が聖霊を住まわせられたことと、「油注がれた」事とを関連づけています。Ⅰヨハネでも、この「注ぎの油」が「教える」(2:27)と書かれていて、人格を持った存在として書かれています。これらのことから、すべてのクリスチャンは、神から油注がれた存在であり、その油とは聖霊であることが、何となくわかります。
 それでは、クリスチャンが神に油を注がれたとはどういう意味なのでしょうか。聖霊が「注ぎの油」と言われているのは、聖霊のどのような働きの故であり、私たちにどのような意味があるのでしょうか。今日は、油注ぎとしての聖霊のお働きについて学びます。

1、油注ぎと聖霊の関係

①油注ぎとは ~聖別と任職~

 まず、旧約聖書において行われていた油注ぎについて、見てみます。旧約聖書時代において、油注ぎは、人物あるいは物に対して行われました。物の場合、石の柱(参照 創28:18)、幕屋とその器具(出30:22以降)、盾(Ⅱサム1:21、イザ21:5 申23:9以降参照)に注がれました。それは、油注ぎによって、それらの物が聖なる神の働きのためだけに用いられるために取り分けられることを意味しました。油注がれた物は、聖なるものとされ、聖なる用途以外には使われませんでした。人物の場合は、王(士9:8、Ⅱサム2:4、Ⅰ列1:34)、祭司(出28:41)、預言者(Ⅰ列19:16)に注がれ、それは聖別と任職を意味しました。聖なる職務に就く人に注がれ、とくに祭司は油注がれることが必須条件でした。
 そして、油注がれることは、神から権威が与えられた事を意味し、非常な厳粛さが伴いました。油注ぎに使う油は、聖なる調合とされ、それに似た調合をしたり、その油を他の人につけたりするならば、民から断ち切られるという罰則が伴いました(出エジ30:22~33)。また、その権威は神からのもので、エフーの同僚も預言者を「きちがい」呼ばわりしながらも、預言者が油注いだ者が王とならなければならないことについては、何の意義も唱えず受け入れました(Ⅱ列9:11~1)。根本的に油注ぎは、神のなさる行為であり(Ⅰサム10:1)、「油注ぎ」という言葉は比喩的に神の好意を受けていること(詩23:5、92:10)、あるいは神の目的を果たすための特別な地位、役割が与えられていること(詩105:15、イザ45:1)(メシヤ)を意味しました。これらのことをまとめると、油注がれた人物は、聖なる者とされ、聖なる職務が与えられ、その聖なる立場ゆえに神から権威を与えられていました。また、聖別されたという事実は、それが物であっても、人物であっても、聖なる用途以外に使われないものとされたことを意味しました。

②任職の油注ぎと聖霊

 旧約聖書において、奉仕への備えとして油が注がれるとき、聖霊が下るということが伴いました。サウル王とダビデ王が王として油注がれた時、聖霊が下りました(Ⅰサム10:1,9:16:13)。新約聖書でも働きの備え、あるいは認証としての聖霊の働きが見られます。イエス様のバプテスマは、公生涯、福音宣教の開始を意味しましたが、その時にも、御霊が鳩のように下られました。このことについてルカ4:18は、イザヤの預言の成就とし、「わたしの上に主の御霊がおられる」と言い、「わたしに油を注がれたのだから」とも言っています。キリストという言葉自体が「油注がれた者」を意味しますが、聖霊が下られたことをもって、神がイエスに油注がれたことを、明確に示されました(参考使徒10:38)。イエス様は、三位一体の神であられ、聖霊によってマリヤの胎に宿られ、その後も常に聖霊とともにおられたと思われますが、バプテスマを受けられた時には、公にメシヤとしてご自分を現される、職務を開始される意味において、見える形で聖霊が下られました。

2、クリスチャンと油注ぎとしての聖霊

 Ⅱコリント1:21で、すべてのクリスチャンが油注がれているとパウロが言うとき、「キリストの内に堅く保」つことと関係づけられています。Ⅰヨハネの2章でも、にせ教師の教えに惑わされず、キリストに留まることが、「油注ぎ」を受けている結果であることが教えられています。これらのことから、クリスチャンが新生の際に、注ぎの油として聖霊を受けるのは、この世から聖別されてキリストの者とされることを意味していることを見ることが出来ます。それは、ヨハネ17章でイエス様が「真理によって彼らを聖め別ってください」と祈られた事とも通じます(ヨハネ17:17)。ここでは、「あなたのみことばは真理です」と言われていますが、先立つ15~16章では、真理の御霊が遣わされることを弟子たちに語り、17章はその流れで語られています。つまり、真理の御霊である聖霊が、キリストを通して語られた真理である神のことばをクリスチャンの内に住まわせることで、クリスチャンをキリストの内に堅く保つのです。クリスチャンならば誰でも神についての知識があると言っているⅠヨハネ2:20でも「聖なる・ ・ ・方からの注ぎの油」が留まっているから、その知識があると言われています。また、「聖霊」は、聖なる霊という意味ということを考えても、聖霊が注ぎの油として、人を世から聖別して、キリストのもとに留まらせる働きを持っていることは納得できます。
旧約での油注ぎは、聖なる立場が与えられることを証明する物でした。しかし、人を聖別する聖霊の働きは、立場についてだけでなく、内面についても見ることが出来ます。Ⅰヨハネ2章には次のように言われています。「あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、――その教えは真理であって偽りではありません。――また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです」(Ⅰヨハ2:27)。ここで真のクリスチャンは、注ぎの油に教えられて、真理を知り(2:21)、油に教えられたとおりにキリストに留まると言われています。これは、聖別されてキリストの者とされたことの、内的な実現です。人間はものではないので、単に聖なる用途に取り分けられただけでなく、その人の知識、信仰、意志においても、イエス様こそ飼い主である事を知り、その声を聞き分け、ついて行く者とします。ここで、誰にも教えを受ける必要がないと言っているのは、聖書の解き明かしを聞く必要がないという意味ではありません。にせの教えに聞き従わず、聖書の真理が解き明かされる時に、それに聞き従うということです。つまり、この方こそまことの神であるという識別に関して、クリスチャン以外から教えられる必要がないということになります。

3、クリスチャンが聖霊によって油注がれていることの意味

 ここからは、聖書が直接言っているというよりも、聖書がクリスチャンは聖霊を受けたことを「油注がれた」と表現しているという事実を元にして理解できることについてです。
 第一に、イエス・キリストを救い主として信じた者は、神に聖別されたということです。祭司が聖なる油によって聖別され、身を汚すことが許されなかったように、クリスチャンは聖霊によって聖なるものとされ、聖なる用途に用いられる者とされました。ですから、それにふさわしく、聖を保つことが望まれる存在となったのです。また、クリスチャンの存在の貴重さ、価値をも示唆します。聖なる調合の油は、決して他の人には塗っていけないし、嗅いでもいけないと言われていました。聖霊が与えられたということは、それだけ貴い、最も聖なるお方が、私たちの内に与えられたということです。その聖なる油によって聖別されたものは、最も聖なるものでなければなりません。
 第二に、油注ぎは任職を意味しました。イエス様も、聖霊が下られて、公の宣教を開始されました。新約聖書全体が、クリスチャンは神によって、神の目的に召された者であると証言しています。注ぎの油として聖霊が与えられたということは、聖なる職務が与えられ、それを果たす為の力が備えられるということです。教会に仕えること、福音宣教をすることは、神からその任職を受けたのであり、そのための権威と責任がゆだねられているとも言えます。
 第三に、神によって立てられた存在だということです。ダビデは自分自身油注がれた王となるべき者であったわけですが、神の御前には王から退けられたサウル(現実には王の地位に留まり続けた)に対してさえ、主に油注がれた者として、最後まで恐れを失いませんでした。クリスチャン同士も、ある点で神が聖とした者としての緊張感と、敬意ある交わりが要求されるのではないでしょうか。
 第四に、油注ぎは、完全に神から出ており、神に決定権があるということです。つまり、クリスチャンが救われたのも、聖なる職務に召されるのも、神から一方的に出たことであって、その人自身の資質とか、力によらないということです。
 最後に、ダビデの生涯から学ぶところがあります。ダビデは、若いときにサムエルから王として油を注がれ、聖霊が下りましたが、実際に王となったのは、随分後の事です。その間、ダビデはサウル王からいのちを狙われる者として、逃亡生活を送りました。しかし、神から油注がれた事実の故に、神が立てられたダビデに従う者が起こされ、やがてイスラエルの王として立てられていきます。クリスチャンも、神に油注がれたと言っても、それは目には見えず、すぐにその貴さが表れるわけではないかも知れません。しかし、聖霊によってその人自身も整えられ、神ご自身のご計画の内に、確かに栄光の器として用いられていく者として召して下さっているのではないでしょうか。

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