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岡崎で行われた野の花セミナーの事例発表7

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岡崎で行われた

野の花セミナーでの事例発表7





 次にこのような精神的戦いをしている人を抱える家族の戸惑いについて、まず列挙します。



 1、現実を受け入れる事の困難がある。どうして自分の子どもで無ければならないのかという戸惑いである。



 2、自分の働きの妨げとならないか。これは、後で全くの誤りである事に気づくのですが。



 3、子どもは親である自分の分身、との思いからか、いつも意識し自覚していなければなら ない。他の人を受け入れる事が出来るし、むしろ関れる事を誇りとも思うのにである。



 4、将来についての不安である。親亡き後の事

 

前回あげた家族の戸惑いについてを一つ一つみていきましょう。今回は、後半です。


6、能力主義、功利主義のこの世にあって、娘の存在の意義を見出して、伝える事に非常な困難を覚える。



  この世の哲学や、教えの原則は、結果が全てと言うところがあります。出た結果によって認めるかどうか、従うかどうかを決めています。その時注意しなければならないのは、良い結果とは自分にとって、便利で都合がよく、社会に必要と認められるもののことでしかないということです。その代表的なものに、テレビ番組やコマーシャル、雑誌などにおいて頻繁に紹介されると、それが良いものとなってしまうということがあります。



 その結果、社会や人の評価において芳しくないもの、目立たないものは無用なもの、意味のないものとして排除されていき、忘れ去られ、ついには捨てられていきます。このように自分や社会に役立ち評価の高いものは、良いものであると言うだけでなく善ともなります。逆に自分の都合を含めた社会的評価の低いものや自分にとって都合の悪いものは悪となり、罪であるとの判断さえ下されてしまいがちです。



 しかし、神様の評価基準は全く違います。神様の御子が、この世に人となって来られた時の姿はまったく逆でした。イザヤは語ります。「彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった」(53章2〜3節)と。



 神様の価値基準は、この世に生きている私たちとは全く異なっています。私たちクリスチャンは、このキリストを模範とする生き方をする者のはずです。つまり、自分の都合や便利さ、社会にとっての有能さで良いと判断するのでは無いという事です。私たちクリスチャンは、神の良しとされるところを自分も良いものと評価し、受け入れるのです。その結果を社会がどう評価しようと、それは神に委ねるという姿勢が大切です。世の中での評価は、人や場所や利害関係によって変化するものです。それらに振り回されない歩みこそ価値ある歩みです。キリスト者は、その様な歩みが求められるのではないでしょうか。



 パウロは、この生き方が非現実的だとは決して言いませんでした。私たちクリスチャンが、福音によって新しく生まれ変わっているならば可能だと言うのです。何故なら神様が、私たちをご自身の証しの為に選ばれたのは、私たちが弱かったからだと言っています「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。」(Ⅰコリ1章17節)。パウロは、ここで神は強い者を通して福音の証しをされなかったと言うのです。



 またパウロは、これが教会においてどのように実践されているかを示して次のように言います。



 「ご承知のとおり、私が最初あなたがたに福音を伝えたのは、私の肉体が弱かったためでした。そして私の肉体には、あなたがたにとって試練となるものがあったのに、あなたがたは軽蔑したり、きらったりしないで、かえって神の御使いのように、またキリスト・イエスご自身であるかのように、私を迎えてくれました。」(ガラ4章13〜14節)と。



 パウロが教会で受け入れられたのは、立派で頼りがいがあり、世において高い評価を受けていたからではないと言っております。実に教会は、パウロの外見によって、パウロの語る福音を受け入れたわけではなかったのです。



 以上のことから私たちは、人を受け入れたり、価値ある尊いものと考える基準を、便利性や見栄えの有る無しで決めてはいけない事が分かります。私たちは、どのような時でも、どこにおいてもこの立場に立ちたいものです。そして救われたクリスチャンは、従う事が出来た時、本当に嬉しく感謝するのです。そしてこれは、精神障がい者を家族に抱える者にとって大きな慰めであり、希望となるものなのです。



7、年々娘の病状が悪くなって行くことに対しての不安感を感じないわけにはいかない。そのために、娘の招来に対してヴィジョンを共に語ることが難しいと感じる。



8、娘と同世代の人たちが眩しく見えたり、健康な人々が自分の命をおろそかにしたり、その健康や地位や知識を犯罪や、自分の為だけにしか用いようとしていない、その我が儘さに怒りが湧くのです。しかもそれらの人々が少しも苦しむことなく人生を謳歌しているかのように写り、人生とは何と不公平にできているのだろうかと嘆いてしまうのです。



 そのような中で娘は家からほとんど出る事ができず、自分は生きていても価値がないと嘆くのです。彼女ほど人のことを考え、自分に対して謙っているのに、どうしてこんなに苦しまなければならないのかと、その身の上を嘆いた事もありました。



 また、その嘆きは、牧師である私自身の心の叫びでもありました。伝道者として人々の怒り、嘆きや悩みの捌け口となって、しずかに誠実に接しようとしても、なかなか理解する友がなく、孤独と重荷とで押しつぶされそうになっていきました。それと同時に私の内に呟きの声が日増しに大きくなって来ておりました。「これほどの労苦が何の意味を持つのだろうか」と。



 そのような悶々とした日々を過ごしている時、私は詩篇73篇を思い起こしたのです。この詩篇の2〜16節は、その時の私の心そのものでした。



「しかし、私自身は、この足がたわみそうで、私の歩みは、すべるばかりだった。それは、私が誇り高ぶる者をねたみ、悪者の栄えるのを見たからである。彼らの死には、苦痛がなく、彼らのからだは、あぶらぎっているからだ。人々が苦労するとき、彼らはそうではなく、ほかの人のようには打たれない。それゆえ、高慢が彼らの首飾りとなり、暴虐の着物が彼らをおおっている。彼らの目は脂肪でふくらみ、心の思いはあふれ出る。彼らはあざけり、悪意をもって語り、高い所からしいたげを告げる。・・ ・確かに私は、むなしく心をきよめ、手を洗って、きよくしたのだ。私は一日中打たれどおしで、朝ごとに責められた。もしも私が、「このままを述べよう。」と言ったなら、確かに私は、あなたの子らの世代の者を裏切ったことだろう。私は、これを知ろうと思い巡らしたが、それは、私の目には、苦役であった。」



 私の中にあったのは、恨みや嫉妬ではなくむしろ報われない労苦がいつまで続くのであろうかという虚無感であったように思います。



 聖書は、続いて(17~27節)語ります。一見、誠実に遜って生きている弱いと思われる者が実は、本当に幸いな人生を歩んでいると知らされました。繁栄し、豊かで最も安全に過ごしていると見えた彼らこそが、最も危うい状態にあるかを教えていただいたのです。



「私は、神の聖所にはいり、ついに、彼らの最後を悟った。・・・目ざめの夢のように、主よ、あなたは、奮い立つとき、彼らの姿をさげすまれましょう。私の心が苦しみ、私の内なる思いが突き刺されたとき、私は、愚かで、わきまえもなく、あなたの前で獣のようでした。しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました。あなたは、私をさとして導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう。天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。この身とこの心とは尽き果てましょう。しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です。それゆえ、見よ。あなたから遠く離れている者は滅びます。あなたはあなたに不誠実な者をみな滅ぼされます。」



 そして私たち家族は、主にある信仰の友と共に過ごせる事が、どれ程の慰めに満ちた神の恵みであるかを知ったのです。そこで詩篇の作者と共に次のように讃美させていただくのです。



「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。」(28節)

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