精神障がい者と教会との関係を求めて

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精神障害者との関係を求めて

(教会と精神障害者との関係)



 多くの人たちの心を痛める事件が最近、頻繁に起こっております。その中でも今年6月に起きた大阪の付属小学校の事件は、各方面に非常に大きな波紋を広げています。それは、この容疑者が精神分裂病者であったとの報道が数多く長時間に渡ってなされたうえ、多くの学識経験者なる人たちのほとんどが、精神病者が必ず重大な犯罪を繰り返し犯す危険な存在であるかのごとくにコメントしたからです。



 その結果、「精神病者は怖い、何をしでかすか分かったものではない。」との思いが噴出した感があります。また更に、心痛める、激しい憤りさえ覚える発言の中には、「重大な犯罪を犯す可能性のある精神障害者を野放しにしておいてよいのか。」などの報道がなされたことです。「野放し」という表現を報道機関が用いていることに激しい憤りを覚えます。何故なら、この表現は、精神障害者を人間と見ていない言葉です。野犬や野獣のごとき見方だからです。これは、明らかに差別です。



 さて、その様な見方をする政治関係者、司法関係者までが加わり、精神病という病を負った人々(好きでなった人は一人もいない)とその家族に、治療の対象にならない病であるとの不安と傷を与えました。



 どのような傷かと言うと、精神障害者自身は二つの意味で恐怖をもつものとなりました。



一つは、

 自分ももしかしたら、今回のような恐ろしい事件を起こしてしまうだろうか、と言う自分の存在そのものに対する恐怖心です。



もう一つは、

 世間の人々の見る目がまた一段と厳しく、偏見に富んだものとなり、皆から嫌われ、きちがい扱いされ、疎外されるのではないか、という恐怖感です。



 これらの二つの不安は、私たちには想像できないほどの恐怖となっています。まるで恐ろしい怪物の待つ場所に向かって、真っ暗な闇の中を歩むがごとき思いです。何故なら、自分の存在そのものが価値がないどころか、悪であり、害であると評価してしまうからです。そして精神病患者とその家族にとっては、社会の精神障害者に対しての理解がまた後退してしまう、と言うなんともやりきれない思いと、そこから来る差別的扱いが一段と激しくなるのではないか、という恐れです。



 この精神障害者に対しての思いは、教会においてもまだまだ世間とほとんど変わらない状態ではないかと思われます。ましてそこに宗教的見方が加わり、独特な理解をもっている人たちの集まりと思えることがあります。つまり、悪霊付き者説、怠け者説、過度の依存者説、親の育て方の問題(育児誤り説)、先祖の因縁説(キリスト信仰の価値観に立ち切れない思想としての祟りや呪いも含む)、遺伝説等さまざまな見解を持ちます。



 ほとんどの人たちが、一つの病として理解しようとしていませんし、障害とも見ません。外傷がない(目に見えない障害、検査をしても原因も状態も特定しにくい障害)為に、精神的なもので何とかなるもの、気持ちの持ち方しだいで治る事のできるものと考えているのです。それが証拠に、「薬に頼ってはいけない。」「薬に依存してはいけない。」という真剣で、親身なアドバイスを頂くのです。最後には、信仰によって何とかなるはずである。信仰がないから、その様な状態になるという熱心なクリスチャンまで現れる始末です。



 そういう人たちにお聞きしたいのです。足を何かの事故などで失った人に、「あなたは、車椅子や松葉杖に頼ってはいけない。気持ちさえしっかりしていれば立って歩き、走れるはずだ。他の人より速く、走れるはずだ。さあ、立って走ってみなさい。気力と信仰があれば、立って走れるはずです。」と言われるのでしょうか。そういうことを言う人はいないはずです。ところが精神障害者には、それと同じことを言っているのです。



 そこで二つの面から精神病また精神障害者についてお話しいたします。

 一つは、聖書は苦難や病気についてどのようにいっているのか、という点からです。

 二つ目は、精神病とはどんな病気で精神病患者はどのような思いを持っている人たちなのかということです。覚えて頂きたいことは、精神病の症状の表れ方は、患者の数だけあるということです。ですから、精神病の表れ方のこれだけ知っていれば良いと言うものはありません。そこに専門家でも診断のつけ方の違いが出て来るのです。



 聖書は、苦しみや悲しみについて決して安易に取り扱ってはいません。あるクリスチャンといわれる人は、ある程度の人の苦しみや不幸に対してロマ人への手紙8章28節を根拠に「神は全てのことを働かせて益としてくださる、とあるのだからきっと無駄には終わらないはずです。頑張りましょう。信仰をもっていきましょう。」と励ますでしょうし、また当人もその言葉で何とか頑張ろうとします。しかし、その頑張りは続かないことが多かったり、深い悲しみと苦しみの深みにいる人には逆に、東と西が遠いように広い隔たりを思わせるだけなのです。このような用い方が、聖書を正しく用いていることになるのでしょうか。私は、この言葉は悲しみや苦しみにあった人に対してではなく、このような問題にあたる前に「私たちの人間の現実の姿」として理解しておくために有益ですし、同じロマ書の中に「罪から来る報酬は死です」との激しくも厳しい言葉があります。私たちはこの言葉によって、自分が人間に過ぎず、神にはなれないことを思い知らされるのです。



 それでは、聖書は死と病について何と言っているでしょうか。死と病は、人間の罪に対してなされた神の深い配慮の結果であると言う点がまず第一にあります。第二に、個人的な罪の直接的な裁きの結果としての死や苦しみがあります。そして第三に、病や苦しみが、必ずしも個人の罪に対する直接の裁きの結果でないものがあります。



 ヨハネ福音書9章の生まれつきの盲人は、その人の親の罪(今日的には育て方も含むと考えます)でも、本人の罪の結果でもない苦しみや死や悲しみがあることを明らかにしています。(勿論、この人においても人間の反逆としての罪の結果としての病と死という苦しみはあることは別にしてです。)悪霊によるとも言っておりません。ただ、神の栄光が表されるためであると主イエス様は言われております。なぜなのかという理由は述べられておりません。それは神の深い御摂理のうちにあることなのでしょう。聖書には多くの病ある主の働き人が出てきます。パウロもそしてテモテもトロピモも更に、40年間生まれつき足の悪い人もおりました。彼らは、病にかかり、死ぬほどの苦しみに合った者もおります。しかし、その中で奇跡的に癒されたのは、生まれつきの盲人と足の悪い人の二人でした。その二人にしても長い間、苦しみを家族と共に、全くの失意の内に過ごしてきたのでした。



 ここで私が問題提議するのは、次のようなことです。

 一つは、罪と苦しみを本質的に悪であるとしか考えていない誤りについてです。主権者なる神が罪と苦しみの背後に立っておられること。苦しみの時に神を呼び求めることを求めておられるということを忘れているのです。神は時には訓練の手段として、罪と苦しみを用いられることがある、などとは考えていないのです。彼らは、自分(人にとって)の都合のよいことだけを祝福として受け入れるという思いに捕らわれているのです。



 二つ目は、主は、弱さを通してご自分の力を示されると言う神の方法があることを見ようとしていないのです。勝利(自分の願いどおりになることだけ)の信仰だけを信仰であると説教しても、ひどい苦しみの只中にあって、本当に辛い中に忍耐を持って忍ぶと言う信仰があり、勝利があるという広い視野での信仰理解がないのです。そこには、癒しと神の力と言う信仰以外を見ていないのです。それは、十字架の正しい理解がないといえるのではないでしょうか。



 三つ目は、復活の主イエスがトマスに言われた言葉を今生きている自分の信仰としていないところから来ます。確かに、しるしと不思議は、信仰を得させるために、時々聖書に現れています。しかし主イエスは、復活の主を見て信じる信仰は見ないで信じる信仰に劣っていると見なされます(ヨハネ20章29節)。しかも、しるしと不思議を求める人人は、しばしば激しく非難されているのです(例えばマタイ12章39節、ヨハネ4章48節)。



 いつのまにか、私たちの信仰は苦しみや病や悲しみから解放される信仰、その様な状態にならない信仰こそが素晴らしい信仰と思っていないでしょうか。その様な信仰は、現代の功利主義の影響をもろに受けているか、神中心の信仰(主権者なる神)ではなく自分中心のわがままな信仰(罪そのもの)になっているからではないでしょうか。



 その上で、精神病について考えて見ます。精神病には、全くの無知から来ている偏見と差別、危険視があります。



 まず初めに、精神障害者は、犯罪を犯しやすい、と言う見方についてですが、今年出版された犯罪白書によりますと、平成10年における交通関係業過を除く刑法犯検挙人員32万4,263人のうち、精神障害者は634人、精神障害の疑いのあるものは1,378人と報告されております。精神障害者とはっきり診断された人は、全犯罪者の0,19%に過ぎないことを報告しております。また、精神障害の疑いのある人を含めても0,6%になるだけです。その犯罪別から見るならば窃盗・詐欺・横領が最も多い、と報告されております。これから見ると新聞の調査報告結果や報道から受けるイメージとの差はどれほど大きいものであるか、分かって頂けると思います。



 そもそも犯罪を起こすにはある主の精神力が必要です。しかし、精神病患者は薬の副作用もあって、無気力で朦朧とした状態になりがちです。そんな彼らが一般の人より犯罪を起こす率が高いはずはありません。実際に検挙されていない犯罪や巧妙な詐欺を含めますと更にこの精神障害者による犯罪率は低くなるでしょう。「精神病者は何をしでかすかわからないから怖い」という思いが、偏見なのです。何をしでかすか分からないのは、精神病者に限らないのです。



 また、精神障害者にとって、精神障害者であるからと言う理由だけで正当な裁判を受ける権利を奪われることの差別があります。その犯罪の重大さは、精神病者であっても同じであることを認めることが、人として認めることです。裁判を受ける権利を剥奪しないで欲しいのです。そして、本当に犯罪を犯したのか、その動機は何かが審議され、弁明する機会が提供されなければなりません。



 二つ目は、どのような人が精神病になるのか、という点についですが、どんな人もこの病気にかかる可能性をもっているといってよいでしょう。精神病は決して珍しい病気ではなく、100人に1人〜2人の割合で発病しているありふれた病気です。そして大切なことは、精神病は、「脳の病気_だと言う正しい理解に立つということです。考えすぎ、人間関係で悩みすぎ、精神的に疲れた状態、あるいは気持ちが落ち込んだ状態と考えるのは正しくありません。そして、性格が悪いからだ、とか怠け者であるとかの理解も間違いです。ましては、悪霊つき(この場合は精神病とはいわない)であるとか、不信仰の結果であるとか、特別に罪深いからだという考え方も正しくありません。



 また、遺伝や親の育て方が原因で無い事もわかっております。分裂病患者の両親の約89%は分裂病ではありません。81%は、両親、兄弟ともこの病気ではありません。更に子どもや甥、姪まで調べても63%は遺伝的なかかわりがないとの研究結果がでております。



 ではどのような人がなる傾向があるのでしょうか。素質的にストレスに耐える力の弱い人にいろいろなストレスが加わって発病すると言われています。実に、この病気の人たちは、気の良い、優しい人たちが多いのです。彼らは、本当に思いやりのある人たちが多いのです。その優しさが、現代社会の中で摩擦となり、ストレスとなっていくように思われます。生き馬の目を抜くと言われる現代社会で、堂々と、先頭を切って生きている人のほうが、まともではないのではないかと思うことさえあります。





a 自立とは何か

 自立には、それぞれのイメージがあるが、どのように考えたらよいのか。「働けるようになる」と言うことを自立と考えたとき、松原病院では以前、退院したら働く、と言うことにこだわりすぎた結果、再発、再入院というケースが多かった。その為に社会と病院の中間的施設のディケアの必要性が急務となった。これは、親子べったりの関係に、ある程度の距離をおくためにも必要。また、「一人で生活していかなければ、自立と言うことにならないか」と言う問いに対しては、人の助けを借りながら、自分の生活をしてゆく時、それも自立ではないだろうかと考える。その為に援護寮、地域生活支援センター、グループホーム等を利用する。





b 自立を妨げるもの

 ① 病気の再発

 ② 生活障害

 ③ 過保護・過干渉



 ②について、

  これは、病気でなければ、自然に身につくべきものだが、病気ゆえに出来ない。また身につける機会が無いことによります。また、その人が何歳の時に発病したかによって大きな差があるように思われます。何故なら発病しますとその病気との戦いで全く社会的適用の為の習慣を身につけることが困難になっているからではないでしょうか。また過去出来たこともできなくなるという状態も起こってきます。これは、病気によって起こる脳障害の故なのか、薬の副作用としてのものか、判断しにくいが生活習慣の退行現象が起こってくるように見えます。ですから、社会生活訓練は、とても大切なものといわなければなりません。その時、同じ統合失調症でも症状は、障がい者の数だけ異なり、対応の仕方も個人差があるということを肝に銘じておきたいものです。



 ア 生活の仕方の障害

  食事の仕方、金銭の扱い方、身だしなみ、社会資源の利用、服薬の管理、

 

 イ 人付き合いの障害

人付き合いが苦手、社会常識が不十分、他人への配慮に欠ける、他人との協調が困難、自分への判断や評価が的外れ。  例えば、人との会話において、理解したと言うサインをうなずきで表すが、ある患者は、そのうなずき等のサインが身についていない。SSTでは、そのうなずきの練習から始める。



 ウ 働くことの障害

 作業能率の低下、集中力の低下、融通が利かない、疲れやすい、習得が遅い、手順が長い、



 エ まとめる力の障害

 臨機応変には行かない、気配りが出来にくい、全体を掴み難い、細かいことにこだわる。 考えが頑なになりがち。





c 自立を促すために必要なもの

 ① 心理教育 症状自己管理

 病気の理解、服薬の重要性の理解、再発パターンの発見、繰り返せば繰り返すほど直りが悪くなる。



 ② 生活障害に配慮したアプローチ

 ア ごく単純化して繰り返しやってみる。 大切なこととそうでないことを理解するために具体的な行動を繰り返しやる(例:ガスの火をつける、お湯を沸かす)

 イ 良い点を見つけてうんと褒める。  放って置くと自分はだめだと言う気持ちになるので褒めることが大切。



 アとイは、認めてもらっている。役立っていると言う実感・・・・ここから一人暮らしへと発展した人もいる。結果ではなく、やり遂げようとした努力を褒める。





 紙面の関係上わたしは、最後に二つのことを述べて終わりとします。

 一つは、この文は精神障害についての序文にもなっていないということです。また、全ての精神障害者の意見を代弁しているとは決して思っていないとうことです。

 二つ目は、このような精神障害者についての関わり方は、決して一律的ではないことと、精神病について真剣な学びをして、いろいろな個性の一つでもあるという考え方があるということを忘れないで頂きたいのです。そして、精神障害者にあって接してみてください。そこから始まるのではないでしょうか。次回の機会が許されることを願って終わります。

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