御言葉メール792
2015年8月15日(記:辻嵐桂子)
「たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。」(ルカの福音書10章31節)
有名な「よきサマリヤ人のたとえ」の一節である。己の正しさを示そうとする律法の専門家に対して、「隣人を愛する」とは具体的にどう行動するのか、イエスはたとえを用いて語られた。
祭司やレビ人が自らの務めを優先し、瀕死の同胞を見捨てたのに対し、この人にあわれみをかけ助けたのは皮肉にも、ユダヤ人たちが日頃軽蔑し敵視するサマリヤ人であった。
私は、自分がこのたとえ話に出てくる祭司やレビ人と同じようなことをしているのではないかと思うことがある。通りの向こう側に倒れている瀕死の人、つまり困窮している人は世の中に大勢いるのに、それに関わろうともしないからである。
困っている人を見たら助けてあげたいし、多少の施しはするかもしれない。だが、このサマリヤ人のように、自分の財産や時間を犠牲にしてまで見ず知らずの人を助けたりはしない。最優先するのはいつでも自分の務め、自分の生活である。
イエスが言われたように、「行って隣人となる」とは容易なことではない。
ただ、私たちの贖いのため世に来られた救い主は、これを完全に実行された唯一のお方だと思う。
「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイの福音書9章13節)