御言葉メール875
2017年3月18日(記:斉藤文子)
「あなたがたはバビロンの王のくびきに首を差し出し、彼とその民に仕えて生きよ。どうして、あなたとあなたの民は、バビロンの王に仕えない国について主が語られたように、剣とききんと疫病で死んでよかろうか。」(エレミヤ27の12,13)
-人間は、今という時の一瞬しかわかりません。だから、今、自分の求めていることのために神に祈り、自分の願いが成ることを期待する。しかし神は、私達の人生の全てをご存知で、今の時を与えてくださっている。
状況がどんなに辛かったとしても、それは災いではなく、平安を与えるものであり、将来と希望を与えるためのものだ、と神は言われるのです。エレミヤは、バビロンとの戦いで、戦争に負けて敵国に連れていかれる時、そこでバビロンの王に仕えて生きよ、というのです。全能の神を信じる王国にとって、これほど屈辱的なことがあるでしょうか。
私なら、こんな事にならないために、神を信じてきたのではないか、と思ってしまうところです。しかしそれは、自分がどれほど身勝手で悲惨な状態にいるかを全く知らない者の思いです。私がそう思ってしまう時には、神だからこそ崇める、という思いから程遠く、神を自分の僕にしている姿です。バビロン捕囚が神だけを崇める民族へとユダヤを変えた様に、私達の「こんなはずではない」という事態が、平安と将来と希望を与えるものである、と神は約束しておられます。