御言葉メール907
2017年10月28日(記:斉藤文子)
「ああ、私たちにわざわいあれ。私たちが罪を犯したからです。・・・しかし、主よ。あなたはとこしえに御座につき、あなたの御座は代々に続きます。なぜ、いつまでも、私たちを忘れておられるのですか。」哀歌5の16~20
聖書は時代を超えて、多くの人が神に向かった魂の叫びを記しています。哀歌の作者は、自分達ユダヤ民族の罪の故に神が裁かれた事を重々、承知しています。しかし、その裁きに用いられた諸国の残忍さの故に国も民も荒廃してしまった。それは私たちが罪を犯したからだ、と告白しながら、作者はその絶望で終わっていないのです。
普通なら、自分が悪かったと諦めるしかない状況で、「しかし、主よ」と神に迫る。私たちは罪のゆえに、悲惨と荒廃の中にいるが、あなたは永遠の神で、あなたのなさる事は全て義しい。作者は神が義しいだけでなく哀れみに富み、罪とがを赦される方だとよく知っていました。だから、何故いつまで私たちを捨てられるのか、と呻くように訴える。
人間同士なら、自分が蒔いた種を刈り取っているだけだろう、と言われて終わりになるところです。しかし神は違う。人間とは違い、罪を憎まれるけど哀れみと恵みにみちておられる方です。その神との深い交わりを持っていた作者だからこそ、まるで信頼しきった父親のように神に迫り不安をあますところなく訴える事ができた。
私達も様々な事態に、心の全てをご存じの神様に訴える事ができます様に。それは信頼と期待があるからこそできる事です。