御言葉メール924
2018年3月17日(記:斉藤文子)
人の子よ、見よ。わたしはエルサレムで、パンの蓄えをなくそうとしている。彼らは恐る恐る量ってパンを食べ、おびえながら水を量って飲む。こうしてパンと水が乏しくなり、だれもかれもが茫然として、自分たちの咎のゆえに朽ち果てる。」エゼキエル4の16、17
エゼキエルがこの預言をしたころには、エルサレムはバビロンに二度、侵略されていました。それでもエルサレムは、比較的豊かで平和でした。そのため人々は、上記の様な事態になることなど夢にも思っていなかったのです。さらにエルサレムは神の都だから決して滅びない、滅びるはずがないという信仰のようなものがありました。だからバビロンに二度侵略され、住民の一部が捕囚になっても、「彼らは運が悪かったのだ」と言って安心していたのです。しかし「神の都」でも偶像礼拝と不道徳によって、神を忘れた町を神様はそのままにしておかれません。上記のみことばのようになっていくのです。
私たちも新約の預言によって、終わりの日が近づいている事、そしてその日はいまだかつてなかったような恐怖と破滅と審判の日であることを知らされています。
しかし私自身そうですが、その様に書かれた聖書のみことばを思い巡らす事の何と少ない事だろうと思います。現実の問題の解決のみを祈り求めてしまい易いですが、どうかその中で、今と今の問題が全てではない事、この世は必ず終わりがある事を悟らされて今と今の問題も主権者なる神に委ねる信頼と幸いが与えられていきますように。