御言葉メール929
2018年4月29日(記:斉藤秀文)
「あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたをわしの翼に載せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。」(出エジプト19章4節)。
神は、ここでイスラエルに思い出させていることは、イスラエルがエジプトで奴隷であったが、神が解放したという壮大な出来事でした。それは、わずか三か月前まで、彼らが民族的抑圧に苦しんでいたが、そこから解放されたという歴史的事件です。
神は「わたしがエジプトにした」、そして「わたしのもとに連れて来た」云われます。神は、イスラエルに何かをせよという言葉は一切なしに、神がすでになしたことが強調します。
神の主導による贖いの恵みがまず先行し、その後ですべての出来事(律法の授与、契約の成立、幕屋の建設、そして約束の地に向かっての行進など)が続いて起こります。彼らが今生きている命は神の恵みによるのです。彼らの将来あるべき姿へと召された歩みは、ここを出発点としなければならない。もちろん、神との契約を守るようにとの倫理的命令はあります。しかし、それは、神の贖いを獲得するための条件ではなく(それはすでに完成している)、彼らのアイデンティティの土台です。アイデンティティと従順は、恵みの結果なのです。
だから律法は、聖書的贖いに対する応答です。それ以外の土台(律法厳守による救いと祝福の獲得)は、思い上がり、律法主義であり、それは失望に導くだけです。神への従順という聖書的クリスチャン生活の証は、神の先行的、一方的贖い(神の将来的目的を含む)という恵みを土台としなければならないのです。