御言葉メール934
2018年6月2日(記:辻嵐桂子)
それにもかかわらず、彼らがその敵の国に居るときに、わたしは彼らを退けず、忌みきらって彼らを絶ち滅ぼさず、彼らとのわたしの契約を破ることはない。わたしは彼らの神、主である。(レビ記26章44節)
26 章は、レビ記のクライマックスとも言える章である。
ここには、律法を守り従順に歩んだ場合に、約束の地で享受するであろう神の祝福と、不従順の場合にもたらされる呪いとが述べられている。
しかも呪いについては、民があくまでも神に逆らい続けるのであれば、その懲らしめは七倍も重くのしかかると繰り返し述べらる(18、21、24、28節)。
それは実に凄惨で、疫病、不作、災害に始まり、ある者は飢えわが子を食らい、遂には敵の侵攻を許し、多くの者が死に、あるいは散らされ、町々は廃墟となる(16-33節)。
この律法の書が書かれてから数百年後、この呪いは現実のものとなっていく。
イスラエルの民は祝福を享受し、約束の地カナンを所有するようになるが、その心は瞬く間に偶像になびき、再三の警告も聞かず反逆に反逆を重ね、遂にアッシリアまたバビロンによって滅ぼされてしまう。
だが、上記の御言葉はどうだ。たとえ民がどのような状態になっても、神は彼らの神であり続けると言うのだ。
そして、残された民を帰還させ、国土を再び回復するという約束もまた、実現されていく。
今やイエス・キリストへの信仰を通して、神(主)は私たちの神となられた。これは奇しいことである。
そして神(主)は、私たちがどのような状態にあっても、私たちの神であり続けて下さるのだ。