御言葉メール1037
2020年8月1日(記:斉藤文子)
「すべてのことが私には許されている」と言いますが、すべてが益になるわけではありません。「すべてのことが私には許されている」と言いますが、私はどんなことにも支配されはしません。第1コリント6の12
パウロは、救いは徹底して神の恵みであり、キリスト者は全ての絆、律法から解放されて真の自由を得た者であると主張します。そのパウロの言葉を誤解または意識的に曲解した人達が、すべてのことが私に許されている、と言いながら、自分達の放縦、不道徳を正当化していったのです。
そういう人達に対してパウロは先ず、全てが益になるわけではない、と言います。全てが許されているからといって、盗み、殺人、姦淫が許されるわけではない。自分のしたい事のために他者の自由を奪い傷つけるなら、それは真の自由ではない。むしろパウロはその自由をもって、自分の利益を求めないで他人の利益を求めるように言うのです。
更にパウロは、どんな事にも自分は支配されない、というのです。何をするのも自由だと言いながら、ある人達は肉欲、お金、社会的地位にこだわりその奴隷になっていることすら気がつかない。パウロはそれらの本能的な事も支配し律する、と言う。
その様に考えていくと、キリスト者の自由というのは、罪を犯す自由ではなく、罪を犯さない自由が与えられている、という事がいえます。
自分を律することの大変さは、その戦いをした人はよくわかります。自分の力で自分を律することはできませんが、自分で頑張るのではなく、神だけを信頼する時、たとえ失敗しても罪を犯さない自由さを経験するのではないでしょうか。