金沢聖書バプテスト教会

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聖書の言葉を音読する恵みについて

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聖書の言葉を音読する恵みについて









  聖書は「初めに、神が天と地を創造した。・・・そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。……」(創一章全体)と、全てのものが神の言葉によると言います。又ヨハネは、神様について語りだすときに「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。……ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」と伝えます。主が、文字ではなく、語られたことばことによっていのちを生み出したことを語り伝えます。つまり神のことばに力があるのです。私たちは、この語られるみことば、を大切にし、その力を認めなければなりません。



 先日、こひつじ文庫にあります本(「絵本 ことばのよろこび」松井直著 日基版)を何の気なしに開いたところ、そこには、「旧約聖書を読んでいると、その話や詩が語られ、聞かれ、伝承されていた頃の人々の様子が、おぼろげながら感じられます。語る人も聞く人も言葉の力を信じ、その力ある言葉がどこからもたらされてくるのかを実感して〝頭と心に打ち込むような聞き方″をしていたに違いありません。ことばに対するこの信頼と素晴らしい聞き方こそ、現代の私たちが完全にと言っていいほど喪失してしまっているものです。時として知識はことばを殺してしまいます。みことばによって立っている教会が力を失うとすれば、語り聞くという関係においてつくり出されるエクレシヤとしての一体感が、崩れ去っているからではないでしょうか。〝話される言葉は、人々を固く結ばれた集団にかたちづくる″聖書は礼拝において高らかに読み上げられる、なぜなら、神は人間に『語りかける』ものであり、決して人間に(文字)を書き送るものとは考えられていないからである〝」とありました。著者は、更に「父なる神は、子を『語る』のであって、書きしるすのではない。神の言葉であるイエスは、読み書きができたにもかかわらず、(ルカ四章十六節)何も書き残さなかった。『信仰は聞くことによるのであり』(ロマ十章十七節)と記されている。『文字は人を殺し、霊(つまり語られる言葉をはこぶ息)は人を生かす』(Ⅱコリ三章六節)」と語られる言葉に目を向けさせます。



 また彼は、少なくとも学校教育を受ける前に、親が子どもにこれだけはしておいて欲しい事として「耳を傾け、聞き耳を立てて人の話しを聞く態度と力とを、子どもの基本的な能力として養っておく事」だと勧めます。しかし昨今の風潮は、自己表現力としての説得力のある言い方についてが、主張されています。このことから現代人が、人間関係を築くことに困難を覚える理由のほとんど(全てではない)が、人の話しを聞くことができないことに原因があると思うのです。同様にキリスト者の交わりを築き上げるのに最も大切なのは、神の言葉を聞くことだと理解しましょう。聖書は、神がまず、神の預言者を通して『イスラエルよ聞け』と命じていることを教えています。



 著者は、言葉は知的なものであるよりも先に、本来生理的なものだと主張します。音声を伴って語られることばは、特にそうだと言うのです。何故なら、乳幼児にとっては、ことばは頭で記憶したり理解するものではなく、全身全霊で感得するものだからと言います。乳幼児がことばを獲得するのはそういう働きだからだと語ります。「そうして言葉を通して気持ちを感じ取り、心が伝わるのです。あるいは気持ちが通じるから、ことばが身につくのかもしれません」と。確かにイスラエルにおいての教育は、律法を声を出して読み聞かせることから始めていたようです。



 以上のことから私は、聖書を黙読から、音読をお勧めします。これは、つまり自分の口で言葉に出して自分に語り、全身全霊を持って神の言葉を耳で聞くのです。

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