金沢聖書バプテスト教会

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真実を見る目−なくてはならないものとは?-

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真実を見る目
ーなくてはならないものとは?ー









「真実を見る目=なくてはならないものとは?」



 私たちは、余りにも多くのものに囲まれすぎていないでしょうか。



 しなければならない用事と仕事、財産に囲まれ過ぎていないだろうか。イエスが言われた(ルカ十章四一節)「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。」のお言葉は、今日ほど当てはまる言葉はないでしょう。しかし、このお言葉を耳に留め、心にまで受け入れる人は何と少ない事でしょう。人は、自分の周りに様々ものをかき集め、体にまきつけることによって自分を誤魔化しますし、又人はその外面だけで何と判断する愚かな存在でしょうか。



 さてイエスの割礼と宮参りは、本当に地味でささやかなものでした。しかし、このささやかな宮参りに主が来られるのを心待ちにしていた人物が二人おりました。シメオンとアンナです。このシメオンとは「正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた」人です。もう一人アンナは長い間、宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えて」おり「イスラエルの慰められることを待ち望んでいた」人でした。彼らもまた、特別に人がうらやましがるような生活をしていませんでした。ただ、神の前に富んでいたのです。神の御前に富んでいる人とは、「エルサレムの贖いを待ち望んでいる」人のことです。神の救い、約束を最も大切だとしている人のことです。



 「シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。」つまりこの肉の体から、この世の努め(キリストを見るまでは死なない)と言う役目と世との関わりから「去らせてくださいます」(開放=放免してくださいます)といったのです。ちょうど厳しい軍隊の任務から除隊する事が決まった兵士のように任務から解かれる喜び、充実感なのでしょう。又同じように、この幼子に合った女預言者アンナは、断食と祈りばかりの引退生活の中でしたが「神に感謝をささげ、そして、エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に、この幼子のことを語った」のです。この幼子は、人生の目標なのです。神に望み抱いたことが無意味でなかった事を確信させ、生きる力を与えてくださるお方なのです。



 イエスは、汚れた子のように割礼を施されました。母マリヤも、汚れた者を生んだかのように「きよめ」の時を過ごしました。それは、貧しい者の犠牲を献げる程の謙りでした。

 しかし老シメオンは、幼子に「救い」を見たのです。そしてそれを喜ぶ悔いし砕けた「心の思い」を持っていたのです。人は皆、キリストを見るまでは死んでは生まれてきた意味がなく、平安が無いと言うのです。そしてこの救いを見る幸いは、どのような人でも得る事ができるのです。その魂が悔いし砕けたものであるならばです。条件はそれだけです。否それ以外は、神の前に罪を積み重ねることなのです。



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