金沢聖書バプテスト教会

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御霊の実について

御霊の実について 1

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御霊の実について 1










 聖霊なる神様が主イエス様の約束通り、十二弟子に降られた事を覚えるペンテコステ(聖霊降臨)は2005年は、5月15日です。そこで冒頭の御霊の実について考えます。



 まずこの御霊の実について語る前にパウロは、人間の姿を指して「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。」と語ります。パウロは、堕落している人間の内には神に喜ばれる善を行う事ができないと指摘してします。ここでパウロは、クリスチャンも未信者と同じ人間性をもっているので、神に喜ばれる善の基準に従って歩もうとする時、必ず聖霊なる神の導きをいただく必要があると言います。ですからクリスチャンは、正義を行うことができたとき喜びますが、自分の努力の結果であると自惚れて、自分を誇ったりしません。彼は、肉の思いが神の御霊の命令に従いたくないという様々な欲望に支配されているので、どのような善も行う力がないことを知っているのです。ですからクリスチャンは、神の喜ばれる正義を行う事ができた事を喜ぶと同時に、内に住んでおられる聖霊なる神を讃美するのです。



 また御霊なる神は、クリスチャンの心の中であろうと、人の中にある隠れた心の邪悪な部分を暴露します。そして全ての人が、エペソ人への手紙でパウロが言うところの「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」(二章三)と告白せざるをえないのです。この「自分の肉の中に生き」るとは、キリストから離れている人の場合に(クリスチャンであろうと)様々な欲望が野放しになっている状態のことを言います。そして人は、「肉と心の望むままを行な」うとき、宗教的な色彩を帯びた場合に偶像崇拝者となります。



 このように肉なる者の最大の特徴は、神の御霊への服従ではなく、自分の人間としての罪の性質にがんじがらめに支配されていることです。従ってイエスの救いを頂く前の人間は、御霊の実を結ぶ事など決してできない事が分かります。



 しかし今は、キリストの御霊に導かれる神の子として、御霊の実を結ぶ時に、なにものにも妨げられる事がないのです。ですからパウロは言います。「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」と。私たちは、御霊の実を結ぶために、御霊に全てを委ねて歩みましょう。私たちは、御霊の実を結ぶ事について失望しなくてよいのです。私たちは、御霊の実を結ぶ事ができるのです。私の努力によってではなく、一方的な神の恵みによる助けと導きによって実現できるのです。ですから私たちに大切な事は、御霊に全てを明け渡す決心をして、実行させてくださいとの願いをもって、神の前に出ることです。


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