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人の感動や体験が信仰を支えるのではない

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人の感動や体験が

信仰を支えるのではない









 神様によって祝福されている教会とはどのような教会のことを言うのでしょうか。私たちは、とても簡単に判断してしまいがちです。その判断は、一つには、たくさんの人が集っている教会、次に多くの献身者を生み出している教会、三つ目は、伝道所をたくさん建て上げている教会、更に教会会計が潤いたくさんのところに支援をしている教会、と上げております。更には、少し判断に難しい事ですが、忠実なクリスチャンたちが集っている教会、と順次数え上げていきます。



 又、ある場合は、「祝福されている教会とは、人数だけではないが、しかし人数も一つの判断される条件ではないでしょうか。」と考えます。教会の大小は、人数や財政の豊かさによりますが、神からの祝福の大小や重要性の軽重にはあたりません。私たちは、教会の価値の大小や、神の祝福の大小の判断を前に上げた目に見えるものでしてはならないのです。イエス・キリストは、九九匹の羊を残して一匹の羊を求めて探し回り、見つけ出した時どれほど大きな喜びがあったかを教えております。ここで注意をしなければならない事は、九九匹を犠牲にしているとは決して言われていない事です。更に金貨十枚のうち失った一枚を探し回った娘の話しと放蕩息子の話しをされました(ルカ十五章)。更に、イエスは私たちに約束してくださったではありませんか。「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ二〇章十九〜二〇節)と。



 教会は、主イエスがともに居られるところです。人がどれだけ集まっているかは関係ないのです。人数や会計の額は、教会の本質にとって全く無縁であり、祝福の有る無しとか、教会の価値とは無関係なのです。教会についてこの理解に立たない限り、教会間の平等はなくなります。



 この教会の評価を数量化する姿勢は、クリスチャン生活において功績主義や能力主義を持ち込むことになります。それは、教会内の兄弟姉妹の間に差別を産み出します。クリスチャンは、人と比較しながらの生活では、神の恵みを覚える幸いな歩みとは決してなりません。兄弟姉妹は、神の御前に同等なのです。





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