キリストの模範に習うものとなれ

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キリストの模範に習う者となれ








 イエスは、幼いころヨセフ・マリヤとその家族と過ごしたナザレという町に行かれました。イエスは、その町の会堂において聖書が渡された時、イザヤ書イザヤ六一章一〜三節「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。」を朗読しました。そしてイエスは宣言しました。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」と。イエスは、イザヤ書のこの言葉は全くそのとおりの出来事として起こった、とご自分にあてはめて語られたのです。



 幼いころのイエスもその家族も知っていた人々にとっては、思いもよらない時であり、思いもよらない事柄でした(「この人は、ヨセフの子ではないか(二二節)」)。しかも預言された約束が思いがけない形で実現したというのですから、本当に驚きでしかありませんでした。つまりこのイエスの言葉は、この日から「主の恵みの年」(十九節)が始まったという事なのです。この「恵み」は、律法用語で「供え物」の「受け入れ」(レビ一章三節)を表す言葉なのです。従って「恵みの時」とは、神に献げものとしての祈りが受け入れられる神の恩寵のときが到来したことを告げたのです。神に受け入れられる恵みの時代が、この時始まったというのです。

その告知を「福音=良い伝令の布告」(十九節=主の恵みの年を告げ知らせるために)といいます。イザヤ書で言う福音とは、「心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め」という内面的自由です(「解放・赦免」とは、ヨベルの年の解放に用いられる=レビ記二五章十節、エゼキエル四六章十七節)。



 更に別の言い方をすれば、苦しむ者が本来の自己を取り戻し、自由を味わう時代が始まったと語られたのです。



 しかし、この良きおとずれの伝達者である「この人は、ヨセフの子ではないか」。ただの私の知っている人ではないか、というのです。そして実際、今の私たちの生活は、全て「いつもの通り安息日に会堂にはいり」(十六節)というものだと言うのです。そうして人々は、救い主をお迎えする事ができないで、躓いてしまったのです。神の御旨と人の意識がずれるのです。つまり私たち生まれつきの肉の目には、いつもの通りとしか映らない住み慣れた世界であり、常態と思われる中でも信仰によって見る目には、主の日であり、救いの時の到来と見えるのです。私たちは、自分の視点を移さなければなりません。自分の世界や自分の考え方でしか物事を見ないならば、視点は変りません。その人は、神の御旨と御手を知る事も見ることもできないでしょう。



 ですから私たちは、次の聖書の御言葉を心に留めなければなりません。そして全く違った立場と、見方に立っていることを自覚しましょう。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント五章十七節)何故ならキリスト者とは、「ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。(Ⅱコリント五章十五〜十六節)」と告白した者なのですから。

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