金沢聖書バプテスト教会

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キリスト教のお墓について

教会管理墓地について

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教会管理墓地について

1、 聖書の中に記録されている墓地について
 ・聖書に最初に記録されている墓地は、アブラハム家の私有墓地であった。
これは自然の洞窟であった。創世記23章19節〜20節、
・人の手によって用意された墓地 ヤコブの遺言=創世記20章5節
・アサ王も生前自分のために掘って用意した。=2歴代16章1節
・主イエスのために用いられた墓は、ヨセフが自分のために用意していた墓地でした=マタイ27章60節、66節、28章2節
・白く塗った墓について=墓のしるしとして、石を当のように積み重ねて墓標とした。また墓を白く塗ったりすることもあった。これは装飾のほか触れないようにとの標識をかねていた。レビ21章1節、民数記6章6節、19章13節、マタイ23章27節
・その他聖書の墓地に関する聖句=1列王2章10節、34節、2歴代33章20節、1サムエル25章1節、ルカ7章12節、
聖書では、墓に葬られない事は恥辱と思われていた。また墓に葬られない事は、刑罰の一様式と見なされていた。イザヤ14章19節、エレミヤ25章33節
しかし、クリスチャンにとって墓は、人生の終着点ではなく、キリスト再臨後の復活を待つ「眠りの場」であり、故人を記念し、偲ぶ場とすることができる。

2、 キリスト教と異教との異いを証しする墓地(宣教の場としての墓地)
・葬儀とその埋葬の仕方こそが、その宗教のありがたさを量る基準としていた日本において、身分階級も、財産も関係なく、平等に丁重なる葬儀と埋葬は、人々にとって、とてもインパクトのあるものであった。(イエスズ会士日本通信、高山右近の記録より)――神の御前での平等を証するものであり、天国に対する望みを告白する事になる。これは今日も同様である。
・いのちは、主が与え、主が取られる、主なる神の御手にあることを証しする場となる。それ故に、キリスト者の希望についての告白の場とする。
・世に対して教会は、故人を大切にし、人生の死にいたるまで総合的な生き方であることを証しする。

3、 キリスト教葬とキリスト教墓地は、異教から遺族を解放するものである。
・異教の習慣を家庭に持ち込ませないためであり、偶像から遺族や親族を解放する。仏壇等の異教は、墓地での宗教行事と関連しており、一人の人の死に対して50年間仏教に縛られることになる。この異教との戦いの場ともなるのが墓地である。
・キリスト教会に集う信徒またその家族を安心させるものである。

4、 主にある愛を証しする場である。
・私たちは自分のことだけでなく、隣人を自分と同じように愛することを命令されている。遺族の悲しみを共にする場でもある。神を信じてこの世をさることのできる幸いを覚えるところである。
・納骨する場所を持たない人に対する隣人愛の行為とする
但し、別途定める決まりを守る事を条件とする。

5、 いつでも個人を覚え、記念する場所である。
・誰でも、いつでも訪れて個人を偲び、個人の信仰と生活を覚えて、遺族、友人、後世の人たちの励みとなる場所とする。
・故人の記念会等は、結婚式、葬儀と同じ扱いとする。つまり、遺族等の申し出によって遺族、友人、有志等の参列によって行う。

教会墓地に関する問題点は次のように整理できる。
1、墓地は継承すべきという規範を信徒たちが持っているため、先代の墓地が寺院にある場合はそれを継承しようとし、墓地を創設しようというときには子孫との信仰の違いによって墓地が無縁化しないようにするため、無宗教の墓地を志向する。
2、他人と遺骨が一緒になることによって近親物故者の個別性がなくなることへの違和感が遺族たる信徒におこる。彼等は遺骨に対して、知識としてはモノであると理解できても、心情的には単なるモノではなく、近親物故者を指し示すモノだという意識を持つ。そこで、個別性を求めてしまうので、他人との共同埋蔵という埋葬形態に対して躊躇いがおこる。
3、地上での収蔵という埋葬形態は、信徒に完全に受け入れられているとは言いがたい。また、半永久的に遺骨はそのまま置かれるわけだから「土に還る」ことができないという点での心理的葛藤が生ずる。
 先に教会墓地の保持と信徒数との関係を確認したとおり、教会墓地は伝道の補完的な役割とはなりうるとしても、それ以上布教に貢献しているとは言いがたい。教会指導者たちは教会墓地を保持したいと考えていても、信徒の側では専ら自分たちが墓地を持っているかどうかということを重視しているようである。つまり、教会墓地は墓地を持っていない信徒に対して、精神的に安心させるという効果はあるかもしれないが、自ら墓地を持っている墓地が、積極的に教会墓地へ改葬したという段階はあまり見受けられない。ただし、以前は外国から経済的に援助を受けていた教会が多かったということを考慮すれば、教会墓地を建設するにまで至らなかったのは当然だとも言えるだろう。すると、現時点で教会墓地を利用頻度は低くとも保持していることは、教会が今後、当該社会に定着していく可能性を秘めているとも言えるかもしれない。
「キリスト教指導者のみならず信徒たちも教会が独自の墓地を持つことには賛成する。だが、信徒たちがそれを利用するとは限らない。それは、信徒たちが墓地を自らの信仰の証という観点ではなく、個々の家族で保持・継承する宗教的施設だとの認識を持つからである。さらに教会墓地の形態によっても問題がある。クリスチャンホームが少ない日本において、信徒たちは、無宗教・無宗派を標榜する霊園の区画を保持することが望ましいと考えている場合もある」。
 この仮説の理由として直ちに想起されるのは、日本ではキリスト教は信仰ではなく思想として受容されているという指摘と、新しい倫理の面が強調され、救済宗教より倫理宗教として受け止められ、倫理生活の破綻が信仰生活の崩壊へとつながり、棄教へと結びつくとの指摘である。近代の日本社会でキリスト教受容の大きな障害となったのは、日本社会の地縁的・血縁的共同体による規制であった。その結果、キリスト教を受容したのは「イエ」「ムラ」を離れて都市部へ出ていた若い層であった。
 教会の共同墓地は、そのような信徒の全生涯を見据えた信仰生活を見据えていることになり、キリスト教信仰を信者に確信と安心を与えるものとなり、又、その家族に平安を与える者となる。これが今日的な意味の大きいところである。

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