御言葉メール586
2011年6月18日
「しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。」(イザヤ64の8)
冒頭のイザヤの祈りは、イザヤ自身のことばを借りれば、奮い立ってすがりつく祈りの様に思えます。真剣に神の言葉に従おうとしている者をあざ笑い、押しのける。
もはや神を呼ぼうともしない、反逆のイスラエルの姿を知るイザヤは、それでも「しかし」と言って執り成すのです。あなたは私達の父ではありませんか。父であるなら、子どもが親に徹底的に反逆したとしても、見捨てられる事は無いはずです。父であるなら罪を赦されるはずではないか。神から捨てられ滅ぼされて当然である事は百も承知していながら、イザヤは祈るのです。
鍋谷堯爾師は、この様に祈れるのは、聖霊の働き以外には考えられない、と記しています。私達は自分や人を許せない、と思う時や、又どうにもならない状況に追いやられる事もあります。その時、どうか、神は私達を造られた父であり、キリストは完全に私達を赦す、と宣告されたみことばが聖霊によって、明らかに私達の心に示されますように。