金沢聖書バプテスト教会

金沢聖書バプテスト教会は、神の愛とキリストの贖いと聖霊の導きによって真の神様を礼拝する者の集まりです。あなたを心より歓迎します

神の人格性 神の本性と信仰生活

人格を持った神

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1、神の人格性

 聖書に啓示されている神は、人格を持った神であられます。人格とは、知性・心・意志・理性・個性・自意識・自己決定を持ち合わせたご存在です。その中で、人格の本質は、自意識と自己決断です。意識は、動物も持っています。動物もいろいろな感情や、欲望を持ちます。しかし、人間は、自分の感情、欲望、思考を自分自身に結びつけて考えることが出来ます。自己決断については、動物は本能に従って動いていますが、人間は自由な感情を持ち、客観的に自分を捉えて、目的と動機を考えて、自分の内部の声を聞いて決断することが出来ます。神はこの自意識を持っておられ(出エジ3:14、イザ45:5、Ⅰコリ2:10)、自己決断をされる方(ヨブ23:13、ロマ9:11、ヘブ6:17)であります。また、聖書の神は、語り(創1:3等)、見(創11:5等、聞き(詩篇94:9等)、心を痛め、悔い(創世記6:6)、怒り(申命記1:37、Ⅰ列11:9等)、ねたみ(出エジ20:5等)、憐れみ深く(詩111:4)、愛される(エレ31:3)お方であります。

2、人格を持つ神はみこころを持つ

 人格の本質は、自意識と自己決断にあると述べました。この自意識と自己決断を表す人格的特徴の一つが意志であります。聖書では、神の意志を「みこころ(原語では神の意志)」と呼んでいます。神は「みこころによりご計画のままをみな実現される方」(エペ1:11)であり、「あなた(神)は万物を創造し、あなたのみこころのゆえに、万物は存在し、また創造された」(黙4:11)と言われています。つまり、この世界に存在するものは、何一つ意味なく、漠然と存在するものはないということです。人格を持った神が、目的を持って、そのように造りたいと願って造られたのであり、存在させようという意志を持っておられるがゆえに、存在しているのです。
 このことは、人間の生き方に非常に強い関係を持ってきます。第一に、人間の存在意義を与えます。私たちが、今ここにいるのは、偶然生まれたのでも、偶然ここにいるのでもなく、神が意図を持ってお造りになり、目的をもってここに存在させて下さっているのです。第二に、人間の生き方に大きな意味を与えます。人間に対してみこころを持っておられるということは、深い関心を持っておられるということです。目的にかなった生き方をしているなら喜ばれ、みこころに背く生き方、心を持っているならば、怒り、悲しまれます。神は、ことの善悪を機械的に判断するような、冷たい存在ではありません。期待と願いを持った視線が一人一人にあります。期待というのは、人が何か神に益を与えることができるという意味ではありません。神が、人に対し目的と願いとを持っておられるがゆえに、持つ思いです。これは、人間の真の生き甲斐になります。人間にとっての損得や、能力の有無を超えて、神が私たち一人一人に対してみこころを持っておられるがゆえに、人間には生きている意味があり、神がともにいてくださるなら、私たちはそれを失うことがないのです。
 しかし、現実には、この神のみこころを知らず、神の目的とはまったく違った目的のために自分自身を使う生き方をしているのが人間です。イエス様が教えられた喩えには、人間が豊かな財産を神からゆだねられたものとして描かれています。しかし、放蕩息子は、父のものである豊かな財産を、空しい楽しみのために浪費し、使い尽くしてしまいます。そして、すべてを使い果たした息子が、父のもとにあることの幸いを思い出し、悔い改めて帰ってくるのを、遠くから見つける父として、神が描かれています。ここにも、神の人格が表れています。本来の目的からそれて、ぼろぼろになった息子をも、そしていつ帰ってくるかわからないにも関わらず、遠くから見つけるほどに待ち続けるお方であり、悔い改めて帰ってくる者に哀れみ深いお方なのです。これほどに、私たちの人生といのちに関心を持ち、意義を与える存在は他にありません(ルカ15:11~32)。

3、人格を持つ神は交わる事の出来る神

 神が人格を持っておられると言うことは、私たち人間と交わる事のできるお方だと言うことです。聖書は、神を見た者は一人もいないと言います。その見えない方と交わるということは不思議なことです。人の考え出す神々には、様々な表情を持つものもありますが、その表情は固定されており、私たちの祈り、問い掛け、行いに答えることができません。しかし、人格を持つお方は、様々な感情を持ち、私たちの心や心から出る行動によって、あるいは祈り、願いに、確実に応答されるお方です。

 ①人格を持つ神は呼ぶことの出来る神

   聖書には、神を呼び求めることが勧められています(Ⅰ歴6:8、詩篇50:15等)。また、悪者の特徴として神を呼び求めないことが挙げられています(詩篇14:4、53:4)。呼ぶという行為は、答えがあることを前提としています。呼び求めるという行為は、その答えに期待していることを表す行為です。もし、神が人格を持っておられなければ、呼び求めることは全く空しいことに過ぎません。空に向かって呼びかけても、空しいだけです。しかし、聖書は「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」(ロマ10:13)と言います。もし、神が自然や人間と同一であったり、単なる力やエネルギーであったりするならば、私たちは神を呼び求めることはできません。しかし、神が人格をもっておられるゆえに、私たちはいつでも神を呼び求めることが出来、それに答えて下さることを期待できるのです。

 ②人格を持つ神は応答される

   聖書の教える神は、人間のあらゆる心の動き、行いに対して、応答されるお方です。不品行と暴虐に満ちたソドムとゴモラの住民の叫びを神は聞き、それを見に降りて来られました(創世記18:20,21)。そのことを神は、アブラハムに知らせ、アブラハムはソドムとゴモラに住んでいたロトのために取りなして、「正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか(18:25)」と言います。これは、神がどのような判断基準で、どのような行動を取られる方であるかという知識と、信頼に基づいた祈りです。そして、「もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう(18:26)」と主は答えられるのです。実際には、正しい者は10人にも満たず、ソドムとゴモラは火と硫黄で焼かれます。しかし、ロトとその娘達を神は救い出して下さいました。聖書は、「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。(ガラ6:7,8)」、「神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです」(ヘブ11:6)と教えます。
   神は、自動的に願いをかなえるような自動販売機や、コンピュータのような存在ではないのです。呼び求める者に、愛と憐れみと慈しみをもって答え、時には怒り、悲しみをもって私たちに臨まれ、具体的に関わられる神なのです。

 ③人格を持つ神は生ける神

   聖書は、このように呼び求めることができ、私たちの言動や祈りに答えられる生ける神を教えるのです。そして、私たちは唯一の道であり、真理であり、いのちであるイエス・キリストを信じることによって、この生ける神と豊かに交わることが許されるのです。ここには、単なる観念的な神や、単なる規範に過ぎない道徳律とはまったく違った生ける神がおられます。キリスト者は、この神に信頼し、この神の答えを体験し、この神の愛と憐れみに満ちたお取り扱いの中に生きるのです。これこそ、真に生きる道です。神が永遠に生きておられるように、人格を持った生ける神との交わりを持つ人間も、豊かにいのちを持ち、豊かに生きるのです。

4、人格を持った神は人間の希望

 創世記1:26に、人は神のかたちに似せて造られたとあります。人間に人格があるのは、人間を造られた神に人格があるからであり、私たちの人格は、人が神に似せて造られたがゆえに持つことがゆるされている宝でもあります。ところが、アダムとエバが神に罪を犯し、人間に罪が入ったがゆえに、この人格もゆがんでしまいました。この地上に、完全な人格を持った人は、一人もいません。
 学校教育の目標は、人格の完成と言います。人間にとって人格の完成とは、神に似せて造られた、その人格に立ち帰り、回復されることです。その意味で神の人格は、人間の理想であり、ゴールであります。その人格は、究極的にはイエス・キリストという私たちと同じ肉体を持つ御子を通して表され、聖書と聖霊の働きによって私たちに伝えられています。キリスト者の救いと希望は、このキリストの人格に似る事であります。神が卓越した完全な人格を持っておられる事は、こうして私たち人間の希望となるのです。
 まことの神以外にも、人間は人格を持つ神々を作り得るかも知れません。それは、人間自身が人格を持っているがゆえに、人格を持つ存在をイメージできるからです。その点で、最近は擬似的に人格を持つコンピュータやロボットが作られつつあります。今後、これらのものはますます技術が進歩し、人格的な特徴を増していくかも知れません。また、人間や社会にとっての存在感も増していくかも知れません。しかし、それらはあくまでも人間の持つ有限な人格の中で似せられるもの、考え出されるものであって人間を超えるものではあり得ません。しかし、まことの神は人間の人格の造り主であり、また源であります。人が神を考え出したのではなく、人間が神に似せて造られたのです。人間が、人間の造り出した人格と交わりを持つならば、その交わりに頼る割合に応じて、それらに似たものとなるでしょう(詩115:4~8)。しかし、人間が自分の人格の造り主なるまことの神を求め、その神と交わることができるならば、その神に信頼する割合に応じて、その神に似せられた人格へと引き上げられるのです(Ⅱコリ3:16~18)。

5、人格を持つ神は恵みの神である

 もし、神が人格を持っておられないのであれば、私たちの祈りや、行為に、自動的に、機械的に答えられるかも知れません。しかし、もしそうであるならば、自存される神は、人間を造り、生かし、良い物をお与えにならなければならない理由をまったく持たないのです。まして、神を神としてあがめない、罪人である人間にはなおさらのことです。ところが、神は人をお造りになり、生かし、良い人(罪人でないという意味ではない)にも、悪い人にも太陽を昇らせ、雨を降らせて下さるのです(マタ5:45)。その上、罪人である私たちの罪の身代わりに、罪なき御子のいのちさえお与えになられたのです。これは、まったくの神の憐れみであり、好意であり、恵みであります。神の一つ一つのお取り扱いの中に、神の私たちに対する願い、思い、意志が込められているのです。

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