御言葉メール629
2012年4月21日
「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。」(使徒行伝17の28)
私が信仰を持った時、父は、「ほどほどに」とか「生活に差し障りがないように」と言いながら、どうせすぐ止めるだろうと考えていたようです。私は何でも飽きっぽい性格で、その点でも心配はしていませんでした。
だから伝道者と結婚をしたいと言った時、父は本当にあわてました。経済的保障が無い生活、というのは父親にとって考えられない事だったのです。信仰が悪いわけではないが、生活がきちんとできて、その上で心の支えとして信仰を持つ。父の様な考えは日本では多くの人が持つ思いだと思います。根底にあるのは経済的自立が先で、信仰はその土台の上に乗っている。この固定観念は聖書の伝える神を、なかなか理解させにくい。
なぜなら聖書の神は、人間の心の安定だけのための神ではないからです。天地を造り、人間をそれぞれ目的を持ってお造りになった。人間の存在まるごと、生きるのも死ぬのも富も貧しさも健康も病も全て、まことに神を土台としている。私達一人一人を愛し赦す神を土台とする時、お金や健康や仕事から自由になる経験が始まります。