金沢聖書バプテスト教会

金沢聖書バプテスト教会は、神の愛とキリストの贖いと聖霊の導きによって真の神様を礼拝する者の集まりです。あなたを心より歓迎します

聖霊と私たちの信仰生活

1、創造の働き

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1、聖霊なる神について学ぶにあたって

 聖霊は、聖書が教える三位一体の神のお一人であり、神の本性において、父なる神とまったく同じ方であります。つまり、霊であること、無限性(永遠性、遍在性)、全能性、自存性、不変性、唯一性、人格性を持ち、聖、義と公平、憐れみと慈しみ、愛、善、真実であられることにおいて、父なる神と同じ神であられます。それと同時に、聖霊なる神固有の働きも持っておられます。

 この聖霊なる神は、聖書において聖霊という名前において、公に人間に語られるなどといった表だった働きを啓示されておられないために、様々な誤った理解を持ちやすいのではないでしょうか。ある人たちは、異言、奇跡、いやしなどといった聖霊の特殊な働きを強調します。ある人たちは、聖霊を人格のない単なる力と見なします。それらは、誤った理解ですが、聖書によるならば、聖霊なる神なしに、人の救いも、信仰生活も、聖書を理解することも、神、真理を知ることも、教会も、あり得ません。ですから、これらのことがクリスチャンに可能とされていること自体が奇跡であります。聖霊は私たち人の心に働き、実際的にクリスチャンの内側から導かれるお方であるので、その奇跡を可能としてくださるのです。誤った理解を恐れて聖霊について正しく理解し、聖霊の助けを求めようとしないならば、クリスチャンの信仰生活、礼拝、祈りは、どうなるでしょうか。あるいは、聖書の信仰以外の世界では、すべての人の心には神が住んでいるという考えもあります。旧約聖書時代における聖霊の働きと、新約聖書時代における働きとでは、同じところも多いですが、大きな違いもあります。

 聖霊についての誤った理解に陥らず、むしろそのお働きの尊さ、大きさを正しく知るならば、私たちの信仰生活はより豊かで、正しく、力強いものになるに違いありません。聖霊は、神がくださる最も偉大な賜物の一つでもありますから、その恵みを豊かに知ることになるにも違いありません。

聖霊というお名前

 旧約聖書では、「霊」、「神の霊」、「主の御霊」と呼ばれていて、霊であるという性質を示していますが、それとともに、ヤハウェなる神の霊性を示すのではなく、ヤハウェなる神とは区別された存在として書かれています。この霊という言葉は、旧約聖書の原語で「ルーアハ」と言い、もともと風や息も表す言葉で、霊という意味で、聖書で使われています。旧約聖書では、3回だけ「聖霊」あるいは「聖なる御霊」という表現が出て来ます(詩篇51:11、イザヤ63:10,11)。

 新約聖書では、聖なる霊という意味の「プニューマ・ハギオン」という言葉が使われ、この言葉が93回も出て来ます。これらのことから、聖霊は表現の仕方にこそ特徴はあれ、旧約聖書時代から常に書かれ、存在された神であり、その働きは新約聖書において顕著に認められるということを見ることができます。つまり、救い、教会とクリスチャン生活において聖霊なる神は密接な関わりを持っておられる事が、このことからも垣間見えます。

2、聖霊は人を生かす

①創造との関係

 創世記において神が天地を創造された記事において、すでに聖霊のご存在を見ることが出来ます。創世記1:1~2は、「初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた」と記しています。ここだけでは、創造と関係があることは分かりませんが、詩篇には次のように書かれています。「主のことばによって、天は造られた。天の万象もすべて、御口のいぶきによって」(詩篇33:6)。「あなたが御霊を送られると、彼らは造られます。また、あなたは地の面を新しくされます」(詩篇104:30)。33:6には、「いぶき」と書かれていましたが、神の霊を表すルーアハという言葉は、息や風を表す言葉でもあるということを学びました。ですから、このルーアハが単なる息を指すのか、霊を指すのか見る必要があります。1:2では、「動いていた」と書かれており、脚注には「舞かける」とも書かれています。申命記32:11には、神がイスラエルを見守ることの喩えとして、鷲がその巣雛の上を舞かける様子になぞらえられています。この箇所の「舞いかける」と創世記1:2の「動いていた」は同じ言葉で、単に息や風が吹いていたと言う表現ではなく、自ら能動的に動き、見守っていたことを暗に示す言葉です。このことから、創世記1:2は、聖霊がまだ秩序のできていない混沌とした世界を巡って、見回っていたイメージことを示す可能性を持っています。そのことと、詩篇33:6を関連させて見ますと、「御口のいぶき」によって造られたということは、聖霊によって造られたという意味ととることができるかもしれません。しかし、詩篇33:6は、基本的には「神のことば」の力強さを語っているところなので、むしろ「主のことばによって、天は造られた」という前半の内容を、別の言葉で繰り返されたと取る方が自然でしょう。ただ、神のことばはヨハネ1:1~3で、三位一体の神であり、創造された神であるとも言われているので、「神のことば」と「いぶき」を同列に置くことで、三位一体の神による創造を暗示している可能性もあるでしょう。同じ神性を持ったヤハウェなる神と、ことばなる神がともに創造の働きをされたのならば、聖霊なる神もそのお働きに参加していたとしても聖書の流れからいって自然です。創世記1:26も「そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた」と言って、「われわれ」という複数による創造が言われており、聖霊なる神が参加されたと考える余地を残しています。

 

②人間の創造と聖霊の働き

 聖霊が創造の働きをなされることにおいて、聖書がより明確に語っているのは、人間の創造、人間を生かすことにおいてです。創世記2:7では「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった」と記します。ここで、人間の創造が、他の生物とはまったく異なる方法で造られたことが強調されています。他の動物は単に「創造された」(同1:21)、「造られた」(同1:25)と書かれていますが、人間は神のかたちに造られ(同1:26~27)、「土地のちり」つまり被造物だけで造られたのではなく、「いのちの息を吹き込まれ」て、「生きもの」となったと書かれています。ここで「いのちの息」は、ルーアハは使われていないものの、「息」という言葉が「ルーアハ」と同じ思想を持っています。そして「生きもの」という言葉は、「生きた霊」、「生きたたましい」とも訳せる言葉です。被造物である生命体に神の霊がふきこまれた存在、それが「神のかたち」に造られた人間であると聖書は教えています。神と同じ霊を持つ存在であるからこそ、神と交わる事ができます。また、それこそ人間が創造されたときの、本来の姿でもあり、「生きもの」と聖書が呼ぶ存在だったのです。つまり、この霊がなければ人は「死んだ」存在であり、神と交わることができず、本来の人間の姿ではないと言うことができます。

 ところで詩篇104:30は「あなたが御霊を送られると、彼らは造られます。また、あなたは地の面を新しくされます」と言っていて、この「彼ら」は海の生きものを指しています。しかし、ここでは「送られる」と書かれていて、「吹き入れる」とは書かれていません。この「送られる」という言葉は、「遣わす」という意味を持っていて、人格性を示しています。この言葉は、聖霊が動物にも人間と同じようにいのちを与えたというより、むしろ、聖霊が万物を創造されたことを教えていると考えることが出来ます。

 エゼキエル37:5では、人間に神の「息を吹き入れる」と書かれており、そして「生き返る」と書かれています。「神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが主であることを知ろう」(エゼキエル37:5)。エゼキエル37章は、骨に肉がつき、筋がつき、皮膚が覆うという、少しグロテスクとも思えるような言い方がされていますが、これは良く読むと肉体の復活を語ってはいません。バビロンに捕囚されたイスラエルの帰還を語っている箇所です。ここでは、イスラエルにおける礼拝生活から引き離されて、異教の地で生きる様を骨に喩えているのです。しかし、彼らの不信仰がいやされ、場所的にも神が御名を置かれたエルサレムに帰ることによって、彼らが「生き返る」と語られています。とくに内面の信仰の回復において、聖霊の働きによって、いのちが吹き入れられ、生き返ると言われているのです。聖霊は、人のうちに、まことのいのちをもたらす働きを持っています。

 ただ聖霊というお名前のところで学んだように、聖霊のご存在は旧約、新約で一貫していますが、旧約聖書では今見て来たことからもわかるように、ぼんやりした啓示しかされていません。しかし、新約聖書では、旧約聖書よりも薄い書であるにも関わらず、「聖霊」と明言されている箇所だけでも100近くあるように、聖霊のご存在と働きが明らかに啓示されています。そして、その創造といのちを与える働きは、新生のわざによって顕著に現れます。以下、その点について学びます。

③人を新生させる聖霊の働き

 このことは、新約聖書教えとよく合致しています。イエス・キリストはユダヤ人の教師ニコデモに、次のように教えられました。「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです」(ヨハネ3:5後半~9)。ここで、聖霊が人を、「新しく生まれ」させ、そのことによってのみ「神の国を見る」(ヨハネ3:3)と言われています。そして、そのことは目に見えない風が、音を出すなどの知覚できる働きを生み出すことに喩えられています。

 ローマ8:11には、さらに詳しく書かれています。「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです」。神が息を吹き入れられて「生きもの」となった人間は、神の命令に違反して、善悪の知識の実を食したことにより、神のかたちはゆがめられ、霊的に死んだ者となりました。しかし、その人間に神は、イエス・キリストを信じる信仰によって聖霊を住まわせ、イエス・キリストの復活にあずからせ、霊的に死んだ者を、神に対して生きる者としてくださったのです。このことにおいて、聖霊はイエス・キリストの死と復活を、信じるものに適用し、霊的にキリストと結合する働きをしています。

 聖霊こそ罪に堕落して、霊的にしんだ人間にいのちを与え、神のかたちに造られた本来の人間の姿に戻す、再創造の働きをされる方だということが分かります。この聖霊の働きなしに、人間はまことのいのちを得ることがなく、神のかたちを回復することはできないのです。ですから、神がクリスチャンに聖霊をくださったということは、非常に大きなことをしてくださったのです。

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