御言葉メール780
2015年5月23日(記:辻嵐桂子)
「ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。
私たちの救いであられる神。」(詩篇68篇19節)
フットプリントという有名な詩がある。砂の上に続くふたつの足跡は、主と共に歩んだ自らの人生であった。だが人生の最期の時、足跡がひとつしかないのを見て詩人は問う。「私が最も辛く悲しかった時、なぜあなたは私と共ににいてくれなかったのですか」と。
主は答えられた。「わたしは決してあなたをひとりにはしない。足跡がひとつしかなかった時、わたしはあなたを背負って歩いていた。」
主イエスは私たちのすべての罪咎を負い、十字架上で贖いの死を遂げられ、私たちは神のものとされた。
神はご自分の民を翼に載せて救い出し(出エジプト19:4)、人がその子を抱くように抱き(申命記1:31)、永遠の腕で支えて下さる(申命記33:27)。
上記の詩篇のみことばも、原文に「重荷」という語はなく、日々になわれているのは実は私たち自身とも言えるのだ。
「あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。
わたしはそうしてきたのだ。
なお、わたしは運ぼう。
わたしは背負って、救い出そう。」(イザヤ書46章4節)