御言葉メール818
2016年2月13日(記:辻嵐桂子)
「主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。」(詩篇130篇1節)
「深い淵」とは、どういう状況を言うのだろう?
私たちは人生において様々な苦難を経験する。病や死別、いや、日常の些細な営みの中でも、思い通りに行かないことが続けば気分が落ち込み、虚無感、時には絶望感さえ抱くこともある。
祈りが聞かれない。クリスチャンにとって最も深い淵は、神に見捨てられたと感じてしまう時ではないだろうか。
この詩篇はバビロン捕囚後に書かれたもので、国家の滅亡に伴うあらゆる苦難が前提にあったと思われる。かつての繁栄は見る影もなく、あるのは荒廃と敵意と嘲り。まさに、神に見捨てられたと思えるような状況であった。
イスラエルの場合、苦難の原因は明らかであった。それは紛れもなく神に背き、神の御言葉を軽んじた、先祖たちの罪の結果であった。
それ故作者は、民族の犯した罪を自らが犯した罪として告白し、悔い改め、ひたすら主の救いを待ち望む。また、神の赦しを確信するが故に、贖いの約束を信じ忍耐して待つよう、神の民にも呼ばわるのである。
私たちの苦難の場合、その原因が直接どの罪によるものかわからないことも多い。しかし、絶望に沈む時、私たちは大抵神を信頼することを忘れている。
かつて誰よりも深い、深い淵から、神に叫ばれたお方が(マタイ27:46)、私たちの確かな贖いとなって、そして蘇って下さった。
「イスラエルよ。(クリスチャンよ。)
主を待て。
主には恵みがあり、豊かな贖いがある。」(詩篇130篇7節)