御言葉メール841
2016年7月23日(記:斉藤文子)
「そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて、主に祈って、言った。」(第2列王記20の2)
祈れる、というのは恵みですが、私自身の事を考えると、習慣的な祈りになっていたり、祈っている最中、他のことが浮かんで祈りに集中できなかったり、またある時は呻きと嘆きの中で祈る事もあります。
いずれにしても神は私達のどんな状態の祈りにも耳を傾けられている。ただ祈る者自身が神からの導きを確信するためには、切に訴える祈りが欠かせない事は私自身、経験するところです。ユダ王国のヒゼキヤ王は神に従う王でした。ある時、神から、あなたは死ぬ、と宣告される。その時ヒゼキヤ王は顔を壁に向けて祈った、とあります。
人ではなく壁に向かって、ただ神だけに祈った。神はその祈りに答えて命を15年、引き伸ばされる。こういう記事を読むと、熱心な祈りが神の御心を変える、と私達は思います。しかし同時に神様は決して変わる方ではない、と聖書にあります。こういう箇所をどういう風に理解したらよいでしょう。神様のみこころは変わらない、というみことばに立つなら、ヒゼキヤが死ぬのは15年後。それなら何故神はヒゼキヤの死を一度宣告されたのか。
理由はわかりません。もしかしたらヒゼキヤ王の神への献身を確かなものにし、新たな危機に備えるためであったかもしれません。私達が辛さの極みにある時、神だけに向かう祈りが導かれます様に。それが私達にどんな状態でも神の最善を思い出させてくれます様に。