御言葉メール845
2016年8月20日(記:斉藤文子)
「あなたがたはバビロンの王のくびきに首を差し出し、彼とその民に仕えて生きよ。」(エレミヤ27の12)
ユダ王国がバビロンに攻められている時、国内ではユダ王国最後の王ゼデキヤを取り巻く偽預言者達と、神の預言者エレミヤがいました。偽預言者ハナヌヤは、バビロンが攻めてくることは決して無いと言い、王も民もその言葉を信用していました。
しかし神の預言者エレミヤは違った。バビロンにユダが滅ぼされることは神のみこころでした。ですから冒頭のみことばにある様に、バビロンの王とその民に仕えて生きよ、というのです。しかし自分の国が滅びる事を願う王も民もいません。エレミヤは神のみこころを語れば語るほど、過酷な迫害の中に生きざるを得なくなっていきます。私達は自分の願いが叶い、自分の心が平安になる事を願って、神に祈り訴えます。苦しみが取り去られることを願います。
その様に祈れることは大きな恵みです。しかしその祈りの中で、私達は神のみこころがどこにあっても、神に従う備えもさせられているのではないでしょうか。その時、主のみこころなら、どんなに辛い現実も、神の哀れみと希望の約束があることに目を向ける、力が与えられるのではないでしょうか。ユダ王国にとってバビロン王に仕える事は主に仕えることでした。その状況の中で主を見上げる事こそ希望と救いそのものだったのです。