御言葉メール855
2016年10月29日(記:斉藤文子)
「見よ。主のことばを退けたからには、彼らに何の知恵があろう。」(エレミヤ8の11)
日本においては、八百よろずの神々を拝む、という事は当たり前に行われており、本当の神がどういう方であるかという事は全く問題にされません。しかしイスラエルは、唯一まことの神のみを礼拝する事を教えられた唯一の国民でした。
律法や預言者を通して、神がどういう方であるか、その聖い神に従って生きる事こそが、人間の幸いであると教えられ続けました。それにもかかわらずイスラエルは、周りの国々の不道徳さや軍隊を推進する異教の神々を簡単に取り入れていきました。だからといってイスラエルは、唯一の神を信じるのをやめると、意識的に考えているわけでもなかったので、彼らは、自分達は主の律法を持ち知恵のある者だと思い続けていた。
しかしその民に対して、神は「主のことばを退けた」と言われる。私はこのイスラエルの歩みを考える時、自分自身もそうだと気づかされます。神を信じているし感心も持っている。しかし他の神々を拝むことはなくても、今、必要なことのみが自分の関心を占めている時は、それでも神を信頼していこうと思えない。
どんな時にも主のことばを心に留める歩みでないなら、神の知恵は出てこないのです。神の知恵の無いところには自分の正しさへの執着と、自分を正当化する思いがふくらんでいくばかりである事を悟りたいものです。