御言葉メール1043
2020年9月12日(記:斉藤文子)
「競技場で走る人たちはみな走っても、賞を受けるのは一人だけだということを、あなたがたは知らないのですか。ですから、あなたがたも賞を得られるように走りなさい。」第1コリント9の24
私はこの箇所を読む時、クリスチャンとしての生活を頑張らなければならないのだな、とずいぶん長らく思っていました。勿論、ここは救いを受けるために頑張る、という事ではありません。救いは私達の努力ではなく、神様の一方的な恵みです。ですから後で出てくる、失格者ということばは、救いを失うという意味ではないのです。
ここでは救いを受けた者が、救いの完成、即ち身体の贖いを目指してする努力の事を言っています。その努力をパウロは人間のスポーツ競技に例えます。
私のスポーツのイメージは、みんなと競争して一人が勝つことですが、そこからいくとクリスチャンもクリスチャン同士が切磋琢磨しながら成長していくことをいうのだろうか、と漠然と考えていたように思います。
しかし朽ちない冠を受けるのは一人だけではなく、主の現われを慕い求めている人には誰にでも授けてくださるものです(第2テモテ4の8)。そうするとここは人と人との競争ではなく、一人一人のキリスト者が、その目標に向かってあらゆることに節制しながら救いの完成を目指していく、という事になります。目標がはっきりしていると節制も努力もできるので、パウロは競技の例をもってきたのでしょう。
節制も努力も現れ方は人によって全く違います。ただ自分の罪との戦いの中で知的にも経験的にもキリストを知っていく歩みは、救いの完成を目指す歩みといえるのではないでしょうか。