教会が教会であるとは

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教会が教会であるとは









 私たちが日曜の主日ごとに礼拝を捧げている神は、父・子・御霊という統一性と多様性という栄光によってあらわされる三位一体の神です。教会とは、私たちがこの神を礼拝するとき、神を真に礼拝する礼拝者となり、キリストの体(教会)として一つとなった礼拝を捧げる民の集まりです。私たちの礼拝は、誤った動機(恵みを引き出す為)や礼拝をしてやるといった傲慢なものとなってはなりません。



 私たちの集まりは、日曜日の朝、死と黄泉とに勝利され、私たちの救いの保障となられたイエスの復活を記念して礼拝するのですから、出席できる時にだけ出席すればよい、という程度の軽いことだとは思っていない人たちの集まりです。自分の予定にあわせて礼拝に出ればよいということは決してないはずです。



 この主日礼拝がどれほど大切かは、旧約聖書の安息日(モーセの十戒)と深いかかわりがある事からも分かります。この十戒は、エジプトからの解放(救い)の条件として与えられたのではなく、新しく住むカナンの地での歩みを導く指針として与えられたものです。つまり今日的には、新しくキリスト者としてこの世の中を歩む為の神からの指針なのです。旧約の民は、安息日の丸一日(夕方〜翌日の夕迄)を時間的にも空間的にも神を礼拝する以外のことはしないと定めて守りました。この安息日を破って、石打ちの刑罰を受けた者がいました。彼は、薪を集めていたのです(民十五章二九〜三二・出三一章十四節)。神の安息を侮って、畏れないからです。



 教会に集う私たちは、この安息日(影)がイエス・キリスト(本体)によって、完全に成就されたと告白視します。罪のための犠牲をささげるという祭儀行為は、イエスという完全な生贄が捧げれて成就したのです。今日私たちは、罪の赦しとしての犠牲を献げる必要は全く在りません。神を礼拝すると言う普遍的な面は、キリスト再臨(安息の完全な成就)まで続け(有効な)て証しするところが教会です。



 ですから主日を守るということは、礼拝の時間(一時間半前後)だけ(しかも朝夕どちらか)を守ればよいとしないのです。礼拝出席できない時は、本当に最善を尽くして(一週間をその日の為に備えて)も残念ながら欠席せざるをえないという事なのです。そして礼拝の一部しか出席できなかったことを悔い、またその一部でも礼拝が赦されたことを神に感謝するのです。



 さらに極端な誤った主日理解は、「説教だけ聴けばそれで主日を守った]]とすることです。この誤った主日理解は、説教に間に合いさえすればよいと判断させ、遅刻を罪と感じさせなくしてしまいます。今日の教会が、キリストの教会である為には、主日をそれほど重大なものであるとの自覚をもつことが、とても大切なのです。


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