野の花セミナーの事例発表
岡崎で行われた野の花セミナーの事例発表7
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岡崎で行われた
野の花セミナーでの事例発表7
次にこのような精神的戦いをしている人を抱える家族の戸惑いについて、まず列挙します。
1、現実を受け入れる事の困難がある。どうして自分の子どもで無ければならないのかという戸惑いである。
2、自分の働きの妨げとならないか。これは、後で全くの誤りである事に気づくのですが。
3、子どもは親である自分の分身、との思いからか、いつも意識し自覚していなければなら ない。他の人を受け入れる事が出来るし、むしろ関れる事を誇りとも思うのにである。
4、将来についての不安である。親亡き後の事
前回あげた家族の戸惑いについてを一つ一つみていきましょう。今回は、後半です。
6、能力主義、功利主義のこの世にあって、娘の存在の意義を見出して、伝える事に非常な困難を覚える。
この世の哲学や、教えの原則は、結果が全てと言うところがあります。出た結果によって認めるかどうか、従うかどうかを決めています。その時注意しなければならないのは、良い結果とは自分にとって、便利で都合がよく、社会に必要と認められるもののことでしかないということです。その代表的なものに、テレビ番組やコマーシャル、雑誌などにおいて頻繁に紹介されると、それが良いものとなってしまうということがあります。
その結果、社会や人の評価において芳しくないもの、目立たないものは無用なもの、意味のないものとして排除されていき、忘れ去られ、ついには捨てられていきます。このように自分や社会に役立ち評価の高いものは、良いものであると言うだけでなく善ともなります。逆に自分の都合を含めた社会的評価の低いものや自分にとって都合の悪いものは悪となり、罪であるとの判断さえ下されてしまいがちです。
しかし、神様の評価基準は全く違います。神様の御子が、この世に人となって来られた時の姿はまったく逆でした。イザヤは語ります。「彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった」(53章2〜3節)と。
神様の価値基準は、この世に生きている私たちとは全く異なっています。私たちクリスチャンは、このキリストを模範とする生き方をする者のはずです。つまり、自分の都合や便利さ、社会にとっての有能さで良いと判断するのでは無いという事です。私たちクリスチャンは、神の良しとされるところを自分も良いものと評価し、受け入れるのです。その結果を社会がどう評価しようと、それは神に委ねるという姿勢が大切です。世の中での評価は、人や場所や利害関係によって変化するものです。それらに振り回されない歩みこそ価値ある歩みです。キリスト者は、その様な歩みが求められるのではないでしょうか。
パウロは、この生き方が非現実的だとは決して言いませんでした。私たちクリスチャンが、福音によって新しく生まれ変わっているならば可能だと言うのです。何故なら神様が、私たちをご自身の証しの為に選ばれたのは、私たちが弱かったからだと言っています「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。」(Ⅰコリ1章17節)。パウロは、ここで神は強い者を通して福音の証しをされなかったと言うのです。
またパウロは、これが教会においてどのように実践されているかを示して次のように言います。
「ご承知のとおり、私が最初あなたがたに福音を伝えたのは、私の肉体が弱かったためでした。そして私の肉体には、あなたがたにとって試練となるものがあったのに、あなたがたは軽蔑したり、きらったりしないで、かえって神の御使いのように、またキリスト・イエスご自身であるかのように、私を迎えてくれました。」(ガラ4章13〜14節)と。
パウロが教会で受け入れられたのは、立派で頼りがいがあり、世において高い評価を受けていたからではないと言っております。実に教会は、パウロの外見によって、パウロの語る福音を受け入れたわけではなかったのです。
以上のことから私たちは、人を受け入れたり、価値ある尊いものと考える基準を、便利性や見栄えの有る無しで決めてはいけない事が分かります。私たちは、どのような時でも、どこにおいてもこの立場に立ちたいものです。そして救われたクリスチャンは、従う事が出来た時、本当に嬉しく感謝するのです。そしてこれは、精神障がい者を家族に抱える者にとって大きな慰めであり、希望となるものなのです。
7、年々娘の病状が悪くなって行くことに対しての不安感を感じないわけにはいかない。そのために、娘の招来に対してヴィジョンを共に語ることが難しいと感じる。
8、娘と同世代の人たちが眩しく見えたり、健康な人々が自分の命をおろそかにしたり、その健康や地位や知識を犯罪や、自分の為だけにしか用いようとしていない、その我が儘さに怒りが湧くのです。しかもそれらの人々が少しも苦しむことなく人生を謳歌しているかのように写り、人生とは何と不公平にできているのだろうかと嘆いてしまうのです。
そのような中で娘は家からほとんど出る事ができず、自分は生きていても価値がないと嘆くのです。彼女ほど人のことを考え、自分に対して謙っているのに、どうしてこんなに苦しまなければならないのかと、その身の上を嘆いた事もありました。
また、その嘆きは、牧師である私自身の心の叫びでもありました。伝道者として人々の怒り、嘆きや悩みの捌け口となって、しずかに誠実に接しようとしても、なかなか理解する友がなく、孤独と重荷とで押しつぶされそうになっていきました。それと同時に私の内に呟きの声が日増しに大きくなって来ておりました。「これほどの労苦が何の意味を持つのだろうか」と。
そのような悶々とした日々を過ごしている時、私は詩篇73篇を思い起こしたのです。この詩篇の2〜16節は、その時の私の心そのものでした。
「しかし、私自身は、この足がたわみそうで、私の歩みは、すべるばかりだった。それは、私が誇り高ぶる者をねたみ、悪者の栄えるのを見たからである。彼らの死には、苦痛がなく、彼らのからだは、あぶらぎっているからだ。人々が苦労するとき、彼らはそうではなく、ほかの人のようには打たれない。それゆえ、高慢が彼らの首飾りとなり、暴虐の着物が彼らをおおっている。彼らの目は脂肪でふくらみ、心の思いはあふれ出る。彼らはあざけり、悪意をもって語り、高い所からしいたげを告げる。・・ ・確かに私は、むなしく心をきよめ、手を洗って、きよくしたのだ。私は一日中打たれどおしで、朝ごとに責められた。もしも私が、「このままを述べよう。」と言ったなら、確かに私は、あなたの子らの世代の者を裏切ったことだろう。私は、これを知ろうと思い巡らしたが、それは、私の目には、苦役であった。」
私の中にあったのは、恨みや嫉妬ではなくむしろ報われない労苦がいつまで続くのであろうかという虚無感であったように思います。
聖書は、続いて(17~27節)語ります。一見、誠実に遜って生きている弱いと思われる者が実は、本当に幸いな人生を歩んでいると知らされました。繁栄し、豊かで最も安全に過ごしていると見えた彼らこそが、最も危うい状態にあるかを教えていただいたのです。
「私は、神の聖所にはいり、ついに、彼らの最後を悟った。・・・目ざめの夢のように、主よ、あなたは、奮い立つとき、彼らの姿をさげすまれましょう。私の心が苦しみ、私の内なる思いが突き刺されたとき、私は、愚かで、わきまえもなく、あなたの前で獣のようでした。しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました。あなたは、私をさとして導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう。天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。この身とこの心とは尽き果てましょう。しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です。それゆえ、見よ。あなたから遠く離れている者は滅びます。あなたはあなたに不誠実な者をみな滅ぼされます。」
そして私たち家族は、主にある信仰の友と共に過ごせる事が、どれ程の慰めに満ちた神の恵みであるかを知ったのです。そこで詩篇の作者と共に次のように讃美させていただくのです。
「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。」(28節)
岡崎で行われた野の花セミナーの事例発表6
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岡崎で行われた
野の花セミナーでの事例発表6
次にこのような精神的戦いをしている人を抱える家族の戸惑いについて、まず列挙します。
1、現実を受け入れる事の困難がある。どうして自分の子どもで無ければならないのかという戸惑いである。
2、自分の働きの妨げとならないか。これは、後で全くの誤りである事に気づくのですが。
3、子どもは親である自分の分身、との思いからか、いつも意識し自覚していなければなら ない。他の人を受け入れる事が出来るし、むしろ関れる事を誇りとも思うのにである。
4、将来についての不安である。親亡き後の事
前回あげた家族の戸惑いについてを一つ一つみていきましょう。今回は、前半の4つです。
1、現実を受け入れる事に困難があります。
2、自分の働きの妨げと考えてしまうのです。
3、親である自分の分身との思いからか精神障がいを持った子どもを、受け入れることにためらいを感じてしまう。
どうして自分の子どもで無ければならないのかという戸惑いがありました。特に私は、牧師家族は、あらゆる面で信仰者家族の模範とならなければならないと思っておりました。そのような願いの時に、次から次と子どもの事で大きな試練(当時は「挫折」と考えておりました)に見舞われました。そこで自分が伝道者として召されていると言う確信について、疑う思いがでてきました。何故なら、娘だけではなく、下の子どもまでが不登校状態になっていたからです。
私の心の中には、まったく証しにならないという焦りが湧き上がってきました。私の理想としていた牧師家庭の状態から遥かにかけ離れたものになっていったのです。そのような時に私たち夫婦は、経験や体験によらないで、聖書のお言葉の約束に立つ事で慰めを頂きました。マタイ11:25〜29「そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
私たち夫婦は、この世において幸福と見られている価値観や基準に従っていないことをあらためて確認した時に本当に慰めを頂きました。神と神の子イエス様に知られている事ことこそ神の業であり、それが最高に幸いである事を知らされたのでした。これは、本当に魂に安らぎを覚える時でした。
自分の娘が精神障がい者であることを公にする事について大きなためらいと心の葛藤があり、信仰が試されました。私にとってイエス様が言われたルカ福音書の言葉は、大変大きな試練でした。「彼らに言われた。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です。あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。」」(9章48節)
4、将来についての不安です。具体的には、親亡き後の娘の生活についてです。年齢順を考えますと、親よりも先に娘が召される事は考えにくいです。また、自分よりも先に天に召してくださいと死を願うことの悲しさと罪に深く自分勝手さを思うのです。
実際に多くの精神病棟には、生活保護を受けて長期入院生活をしている人が実に多くおります。私たち夫婦は、毎日のように入院中の娘を見舞いました。そのような中である看護士の言葉が印象的でした。「毎日面会するほどに大切にされている人の世話をできる事は嬉しいことです。」と言われた事です。素敵な言葉と思いました。しかし別の視点から考えるならば、ほとんど面会される事のない患者に対しては、自然と看護意欲が薄くなってゆくという事を意味しているのです。
皆が大切にするものを他の人も大切にするのは当然かもしれません。ですから親亡き後は、誰がこの娘を見舞ってくれるのだろうか、と思い悩むのです。皆、自分たちの家族があり、生活があります。それで、精一杯なのですから。(続く)
岡崎で行われた野の花セミナーの事例発表5
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岡崎で行われた
野の花セミナーでの事例発表5
この世において障がい者自身の苦しみや辛いと思っていることについて、先週に引き続いて特に娘の言動から整理します。
6、薬によって人格が変えられるような不安とどの自分が本当の自分なのかわからなくなる不安。
このような不安は、本当に深刻なものといえるでしょう。私たち人間にとっては、いつも自分とは何ものであって、何ものでないか、これが大切な問いかけではないでしょうか。これは、薬によってなされる問いかけではなく、人間としていつも問い掛けなければならないものです。
そして私たちは、福音の持つ真実なメッセージに自分の位置を見出す事が出来たのではないでしょうか。わたしたちは神に造られて、神の栄光を現し、神を喜ぶ者とされた存在です。それ以上では決してありません。つまり決して人間は神には成れない存在であるということです。又同時に人間は、人間以下のものでもありません。他の被造物の中でもっとも高価で価値あるものです。神はその様に見て下さっているのです。
(詩8篇6)「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」と詩篇の作者は語ります。
ですから服薬をしていようがいまいが、そのような事によって私たちの価値が決まるわけでもありません。また私たちの価値は、人格的にどのような状態にあるかではありません。私たちの価値は主なる神が、そう見ていて下さることにその根拠を置いているのです。
ですから、自分でどのように自分のことを考えるかによって自分を計るのでもはなく、又人がどのように評価して見てくれるかによってでもなく、神がどう見ていてくださるかの視点に立って自分を見ることが大切なのです。
教会とはまさにそのような視点に立っているクリスチャンたちの集まりなのではないでしょうか。キリストにあって生きる者となったとは、古き人を脱ぎ捨てて、新しくキリストを着た者です。その服薬によって人が変わったわけでは、決してありません。同じ生きるならばどのように生きるかを祈りの中で、主体的に選択していかなければなりません。服薬を続ける事によって神に信頼し、兄弟姉妹の交わりと、社会的責任を果たして行くのが楽であるならばそれでよいではありませんか。私たちは、苦行や厳しい修練に救いがないことを知っているのですから。
次にこのような精神的戦いをしている人を抱える家族の戸惑いについて、まず列挙します。
1、現実を受け入れる事の困難がある。どうして自分の子どもで無ければならないのかという戸惑いである。
2、自分の働きの妨げとならないか。これは、後で全くの誤りである事に気づくのですが。
3、子どもは親である自分の分身、との思いからか、いつも意識し自覚していなければなら ない。他の人を受け入れる事が出来るし、むしろ関れる事を誇りとも思うのにである。
4、将来についての不安である。親亡き後の事
5、親自身が原因探しをして、育て方の問題はなかったかと戸惑い、苦しむことが多い。
6、能力主義、功利主義のこの世にあって、娘の存在の意義を見出すして、伝える事に非常に困難を覚える。
7、年々症状が悪くなってくる事に対してなかなか明日への具体的希望を見ることが出来ない。つまり将来のヴィジョンを共に語ることが難しいと感じる事が多くある。
8、娘と同世代の人たちが眩しく見えたり、娘が不憫に思えたりすることの葛藤がある。
以上が、私の祈りの中で抱えていたものです。これらをまた一つ一つ、聖書から考えたいのです。
岡崎での野の花セミナー4
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岡崎で行われた
野の花セミナーでの事例発表4
この世において障がい者自身の苦しみや辛いと思っていることについて、先回に引き続いて特に娘の言動から整理します。
4、自分の苦しみや悲しみを理解してくれているかどうか不安である。
娘は、度々「こんな地味な病気ではなく、もっと派手な障がいなり、病気の方がよかった。」といいます。その言葉の意図するところは、決して精神病を軽蔑しているのではありませんし、病気に優劣をつけているわけでもありません。精神病が、表にあらわれない病気である(それに対して、ケガや他の病気ですと原因がはっきりしていますし、症状も発熱や嘔吐、下痢などの症状が見える事が多い)ので、仮病と思われていないだろうか、怠け者であると思われてはいないだろうかとの、不安からの言葉なのです。また、精神病の症状は、健康な人と共通する気持ちを持っていますので、ほとんどの人が、「心のもち方の問題ですよ。」とか「気持ちのもち方しだいで、誰でも思うところだから、そのような弱い気持ちに負けてしまってはダメだ、しっかりしなさい。」と叱咤激励される経験から出た言葉です。
特に妄想(被害妄想・関連妄想・伝達妄想など)や、幻覚(幻聴・幻視など)は、本人の意志や思いなどの心の状態とは関係なく現れてきます。気持ちの持ち方一つと言われてもどうにもならない現実としてあるのです。それを気持ちの持ち方しだいだといわれることによって、理解されていないと言う孤独感と疎外感を味わうのです。
そのような娘の言葉に私は、次の御言葉の意味の深さ・重さを改めて示されています。
Ⅰペテロ3:8「最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。」
これはパウロもロマ人への手紙15章5〜6節で大切な勧めとしています。まずは、「心を一つに」する事です。心が一つでなければ、教会はペテロの言う意味で一つなのではありません。そしてこのことは、いくら私たちが互いに口で「心を一つに」していると強調しても、決して心が一つである保障とはなりません。しかし私たちは、心が一つであることの保証を持っています。それは、イエスが、私たちの全ての罪過を一人で担ってくださり、私たちに代わって一人で苦しみを受けられ、虐げられ、殺されたというメッセージを互いに信じているということによってです。つまり、同じキリストの心を信仰によって持っていることによる保証です。これが、私たちの心の一致の基礎です。ここに立つ時、私たちには精神障がい者の痛みや悲しみをまったく同じくすることはできないけれども、キリストの十字架の心を信仰によって共有しているので、一致しているといえることを伝えることができるのです。
次に第二の勧めである「同情し合い」がきます。その理解があれば「兄弟愛」と「あわれみ深くあれ」との勧めが、正しく理解出来るのです。 これらをパウロは、ロマ人への手紙12:15〜16で「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。」と語っています。これは、精神障がい者を理解する上でも私たちに強く迫り来る御言葉です。
5、服薬について偏見をもたれていること、欠かす事の出来ない事を理解してもらえない事です。
薬についての偏見があります。精神薬が、犯罪に使われたり、かつては中毒症状を起こす事が多かったことは事実です。また服薬する事は、薬への依存であるとして服薬を悪い事をしているとみられる事です。私たちは、誰でも依存しあって生きております。神お一人だけが自存されます。神以外誰でも依存し合っているのです。体に障害を負っている人は、ヘルパーに、車椅子に、杖、盲導犬そして介助犬に依存します。依存しているものによって、その人の価値や努力が評価されるわけではありません。精神障がい者にとってその障害のための補助が服薬なのです。骨折した人が松葉杖を用いるのと全く同じなのです。
むしろ互いに助け合う事は主の命令ではないでしょうか。
岡崎での野の花セミナー3
野の花セミナーの事例発表¦コメントは受け付けていません。
岡崎で行われた
野の花セミナーでの事例発表3
【精神障がい】は、人間関係における障がいであるが故に、他者との会話の持ち方が大切であるとを先週学びました。それと同時に障がい者は、自己の存在を、自身で認める事に困難が伴う障害でもあるといえます。これは、全ての障がい者が共通して経験された苦しみと辛さではないかと考えます。ある意味で障がい者の苦しみや試練は、人間存在そのものに関る問題提起ではないでしょうか。現代社会における存在価値は、何がどれくらいできるかという能力とその時代の支配者にとってどれだけ有用で、貢献するかなのですから。
このような世において障がい者自身の苦しみや辛いと思っていることについて、特に娘の言動から整理しますと次のようになります。
1、障がいを負っている自分が、生きていて良いという、積極的な意味での存在感が得られない事が悲しいし、辛いのです。
この意味は、「障がいをもっていながらも頑張っている姿によって、他者の慰めになる」というような消極的な位置付けではなく、存在が直接他者の為に意味を持つという事においてです。特に精神障がい者の場合、その頑張るという気持ちに様々な障壁があって、頑張る事が非常に困難な状況なのです。そのために「頑張って!」という励ましが、症状を悪化させる事になる場合がほとんどなのです。そのような励ましと期待に応えられない自分が辛いのです。そのような繰り返しの中で、全く自信を失っていくのです。
ですから人間存在の価値を、この世の社会の必要に、どれだけ応えられるかにおくのではなく、全く別の価値観に立ったキリスト教世界観に根拠をおいて、そこに立つしかないのです。ここに神の像(かたち)に創造されたという聖書の人間存在の根本に、視点を移さなければならない理由がでてくるのです。
2、病気である自分と相対して欲しい、との思いがとても強いのです。
私の娘は、今年で統合失調症という精神障がい者生活を10年間過ごした事になります。この病気については、一昨年までは【精神分裂病】と言われておりました。この間娘なりにこの病気について様々な葛藤があったように見受けられます。ありのままの自分を受け入れて欲しいと切に願っているのが精神的障害を負った人たちなのです。精神障がい者は、ある条件がつけられた他の自分を装う事(役を演じる事)のできない人達です。
3、この病気にかかったのが、何故私なのか。他の人でもよかったではないか。何故、神様を信じている私がこのような病気にかからなければならないのか、その理由が知りたいというのです。
この時、神の摂理という聖書の教えを信じる事は、本人にとっても、また家族にとってもとても幸いな事です。自分の責任でも、親の責任でも、また社会の責任でもなく、神の深い永遠のご計画によるのですから、分からなくてよいのです。
そしてその存在の仕方が、一人一人みな違ってよいことが信じられるのです。 箴16章4、申30章15、ヨブ2章10、アモス9章4
しかもこれらの御言葉は、どの様な事も主の御栄光の為に神がご計画され用意されたものである事を教えてくれます。更に人間にとって、一番大切なことは、神様の御栄をあらわす事といつまでも神様に信頼する事(バプテスト初歩教理問答書)と教えます。ですから、どんなに人が羨むような才能と知恵、財産そして名誉を持っていても神様の栄光の為に用いないならば、神様を信頼する事が無いならば、その人の存在そのものがむなしいとされるのです。
これは、どのような人にも平等に与えられた存在理由です。しかもその方法は、エペソ人への手紙によりますと神様がその方法さえも用意していてくださるというのです。他者と比較する必要のない生き方です。その人だけに神様がご計画された働きであり人生なのです。それが、聖書のメッセージであり、幸いなのです。
ヨハネ福音書9章3節で言われた「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」とのお言葉は、障がい者だけでなく、全ての人の道しるべです。
岡崎での野の花セミナー2
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岡崎で行われた
野の花セミナーでの事例発表2
【精神障がい】にも一言でくくれない、様々の【障がい】があります。しかし他の【精神障がい】と共通するところも多くあります。同時に【精神障がい】について理解して頂く事柄の中には、身体的障がいの方々に対しても必要な理解(共通項)すべき事柄があるとの理解に立っております。また、私が【障がい】という言葉を使うとき、【障がい者】という特殊な人間が居るという意味で用いているわけではありません。若い人、老人、青年、男性、女性と言うその特徴と個性をあらわす為に用いていると理解していただく事を願っております。ですので、この【障がい者】という言葉が本当に相応しい言い方なのか分かりません。しかしもっと適切な表現が与えられる事を願って止みません。【精神分裂病】という病名から【統合失調症=十分満足ゆく表現とはいえませんが】と変更されたようにです。
さて第一回目は、言葉(話しことば)の持つ影響についてみました。【精神障がい」を負っている人は、人の言葉に敏感に反応し、【障がい】の症状が顕著に現れる【障がい】であると言うが出来ます。言葉が、対人関係によって成り立つところから【精神障がい】は、対人関係の【障がい】と言えます。
今回は、会話について更に心配らなければならない事があります。【精神障がい】は、多くの場合、会話の全体の流れや、会話の雰囲気を理解して話しを聞くこと、聞いて理解する事がかなり困難です。そして、自分のことに関る言葉だけを、自分流に自分の関心事と結びつけて理解する傾向があります。その時、ほとんどの場合ポジティブには結びつきません。ネガティブに捉え結び付けてしまいがちです。そして不安感と焦燥感、怒り、自己否定的になっていきます。このような状態は、決して考え方や心のもち方、信仰によってしなくなるというものではないようです。本人もとても辛いのです。これが症状の一つです。風邪の症状に、発熱、頭痛、寒気というのが伴うのと同じように、精神で何とかできると言うものではないのです。
そこで、会話をするときには次のことに注意を払う必要があります。
第1に、結論だけを言わない。それで終わってしまう会話をしない事。
第2に、その結論の目的と話した時の気持ちをはっきりと伝える事。
第3に、あなたのことを思って言っている、と確実に言葉にして伝える事。
第4に、他の人とは勿論ですが、その人の過去とも比較して話さない事。
「普通は、その位は出来るよ」とか「前のあなただったら当然出来たのに」 などです。本人は、いつも自分で比較し傷つき疲れているのです。
第5に、どのような人についても能力や行いによって、その人を評価するような会話をしない事が大切です。
岡崎での野の花セミナー1
野の花セミナーの事例発表¦コメントは受け付けていません。
岡崎で行われた
野の花セミナーでの事例発表1
私は、金沢教会の牧師であると言う事の為に当教会で【精神障がい】を負っている人について、特に「統合失調症」について、当教会の公の紙面を用いる事をためらってきました。何故なら、自分の娘がその【障がい】を負っているからです。何故なら週報などの公の紙面は、個人的な事柄に用いられてはならないと考えていたからです。「結局牧師は、自分の家族の為に週報を用いている」と言う批判と誤解を避けるためでした。
しかし、娘も一人の教会員であり、【精神障がい」を負っている人に対する理解を深める事は、教会の今日的課題として大きいと考えるに至りました。そこで、自分の娘の例を中心に障がいを負っている人に対する偏見を無くす機会となるならば幸いと思い、これから何回かに分けて、岡崎で行われました「野の花セミナー」での事例発表を掲載します。
精神障がいは、一言でくくれない様々の障がいがあります。私は、他の障がいについても多少理解するための学びをしておりますが、特に娘との関係で「統合失調症」という精神障がいが中心となる事を理解して頂きたいのです。
しかし、他の精神障がいと共通するところが多いのも事実です。また【精神障がい】について理解して頂く事柄の中には、身体的障がいを負っておられる方々に対しても必要な理解(共通項)すべき事柄があります。
第一回目は、言葉(話しことば)の持つ力について考えてみましょう。
語り言葉は、大きな影響を与えます。【精神障がい】が、【障がい】として現れるところ、つまり場面は、人との関係において現れる【障がい】だという事が特徴ではないでしょうか。つまり対人関係において受けたり、与えたりする【障がい】だという事が出来るでしょう。これは、ほとんどの【精神障がい】の特徴と思われます。
例えば娘の病気名は、「精神分裂病」から「統合失調症」と代わりました。言い方が代わっただけだと思われるかもしれませんが、当人やその家族にとって、それは本当に大きな違いであり、問題となるところなのです。
「精神分裂病」という病名は、何か精神が分裂しており、何を言っても分からない、又何をしでかすか分からない、といった恐れさえ感じさせる病名でした。しかし、この「統合失調症」という病名は(この病名も問題が全くないわけではありませんが)、本人もまたその家族においても他の人に説明しやすく、同時に自分の障がい名を紹介しやすくなった事も事実です。
私たちも人の話しことばで傷つきもし、励まされもします。悪意ある中傷の言葉もあれば、人を誉め、やる気を出させる言葉もあります。心を冷たくして絶望を与えてしまう言葉もありますが、人の心を温かくし、力づけて望みを与える言葉もあります。愛を冷ます言葉もあれば愛を燃え立たせる言葉もあります。そのほかにも言葉に力があることを体験する例はたくさんあります。
ですから、私たちは語り言葉に十分注意をしなければなりません。私たちは、この言葉によってどれだけ多くの人を傷つけ、悲しませ、誤解と争いを引き起こしてきた事でしょう。そしてその人の人柄は、話す言葉と内容であらわされます。
聖書は、ヤコブの手紙で舌がどれほど罪を行うか、また神に背いてきたかを語ります。3章8〜10節「しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。」
しかし、主イエス様はそのお言葉一つで病を癒され、悪霊を従わせられ、いのちを吹き込まれてご自身がいのちの主であることを証明されました。また父なる神は、そのお言葉で全てのものをおつくりなったのです(創1章・2章)。
【精神障がい」を負っている人は、人の言葉に敏感に反応し、【障がい】の症状が顕著に現れる【障がい】であると言うが出来ます。【精神障がい】は、対人関係の【障がい】なのです。